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論理と直観
ろんりとちょっかん
作品ID47002
著者三木 清
文字遣い旧字旧仮名
底本 「三木清全集 第四巻」 岩波書店
1967(昭和42)年1月17日
初出「知性 三月号」河出書房、1941(昭和16)年3月
入力者Juki
校正者川山隆
公開 / 更新2007-06-14 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 我々が物に行くのは直觀によつてである。これは如何なる物であらうとさうである。ただ物に行くといふのみではない、直觀によつて我々は物の中に入り、物と一つになるとさへいはれるであらう。故に知識といふものが元來何等かの物の知識である限り、如何なる知識も直觀に依るところがなければならぬ。直觀のない思惟は、如何に形式を整へるにしても、空轉するのほかない。直觀を嫌惡する論理主義者は、物を嫌惡するものといはれるであらう。論理はただ論理として價値があるのでなく、物に關係して價値があるのである。物に對して論理が押附けられるのでなく、むしろ物の中に論理が入つてゐるのでなければならぬ。しからば物の論理といふものには何等か直觀的なところがないであらうか。他方もとより直觀もただ直觀である故に尊重されるのではない、直觀に對する情熱は物に對する情熱でなければならぬ。しからばまた物の直觀には何等か論理的なところがないであらうか。
 およそ論理には差當りカントのいつた如く二つのものが考へられるであらう。カントはそれを一般論理と先驗論理といふ言葉で區別した。一般論理は認識のあらゆる内容から抽象して、言ひ換へると、對象に對するあらゆる關係から抽象して、思惟の單なる形式を取扱ふもの、つまり形式論理である。この論理に合つてゐる場合、我々の認識は正しいといはれる。しかしそれは未だ眞といふことはできぬ。なぜなら眞理とは我々の認識と對象との一致であり、眞であるためには我々の認識は對象に關係しなければならぬ。形式論理は未だ眞理の論理ではない。カントが一般論理に對して先驗論理といふものを考へたのは、眞理の論理を明かにするためであつた。先驗論理は眞理の論理と見られた。我々の認識は如何にして對象に關係するかといふことが、その根本問題であつた。眞理の論理は單に形式的なものでなく、内容の論理、物の論理でなければならぬ。かやうなものとして眞理の論理は直觀の問題を離れ得ないであらう。形式論理は單なる思惟の問題であるにしても、眞理の論理はつねに思惟と直觀の問題である。カントが一般論理と先驗論理とを區別して、一般論理の對象は思惟の分析的手續であるに反して、先驗論理の對象は綜合的手續であるといふとき、やはり同じ問題が含まれてゐる。「種々の表象は分析によつて一つの概念のもとにもたらされる(これは一般論理の取扱ふ仕事である)。しかるに表象ではなくて表象の純粹綜合を概念へもたらすことを教へるものは先驗論理である」(Kr. d. r. V. B 104)。綜合といふ場合、直觀の多樣が豫想されてゐる。單なる論理的反省がただ概念に關はり、分析的であるに反して、先驗的反省は直觀の問題と結び附いてゐる。「我々が單に論理的に反省するとき、我々はただ我々の概念を悟性において相互に比較する、即ち二つの概念はまさに同一のものを含むかどうか、兩者は矛盾…

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