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尹主事
ゆんしゅじ
作品ID4705
著者金 史良
文字遣い旧字新仮名
底本 「金史良作品集」 理論社
1954(昭和29)年6月20日
初出「故郷」甲鳥書林、1941(昭和16)年
入力者ゼファー生
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-02-09 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 町の北、丘を越えたところにじめじめした荒蕪地がある。その眞中に崩れかかった一坪小屋がしょんぼり坐っていた。潜戸の傍にかけた大きな板には墨字で尹主事と書かれている。
 尹主事は朝起きると先ず自分の版圖を檢分した。彼はこの荒蕪地一帶を自分の所領と定めている。汗をはたはた流しながら棒切れで境線を引き廻る。
 そこで一先ず小屋に歸り、地下足袋をはきよれよれのゲートルを卷き付ける。擔具を背負うと、再び出て來て、例の名札を十分程もじっと見つめ、それから踵をかえしてすたこらとさも急がしげに町へ出掛けた。――だが未だかつて人は彼の働いているのを見たことがない。
「今日はどうしたね」と夕方つい出會いがしら問いかけでもしたら、彼はにたにたしながら胡麻鹽の蓬頭をくさくさ掻き立てる。「なあ、全く不景氣でしてな」いつかも尹主事は私の家にあたふたとやって來て書室の前に立ち現れた。そして何かを切り出しにくそうにもぞもぞして手を揉んでいた。どうしたのかと訊いてみると彼は莞爾として微笑んでから、日本に渡ったら羽二重(彼はそう發音した)の見切品を買取って貰えぬだろうかと何度も腰を曲げて叩頭した。誰某が日本内地からそれを直接取り寄せて大儲けをしているからと得意然に。
「わっしも一つ儲けて城内に家を建てて移らんことにはなあ、ひっひひひ、ひっひひひ」と思うと、そのことはもう忘れ去ったように、今度は淫らなものを見た坊主のごとくひとりえへらえへらと笑い出した。そこで突然面長と駐在所の巡査とどちらが上だろうかと質ねよるのである。つい苦笑すると主事はいよいよ愉快になって、それみろ答えられんだろうと言うみたいに私を指差しひっくり返りそうにけらけら悦びながら歸って行った。
 ――それから野ずらに陽炎が緑にけぶる頃のことである。彼は小屋の壁に寄りかかり肌をさらけ出しで虱をとっていた。暖い陽光は彼の六十年來の垢肌をくすぐったくうずうずさせる。それに大きな奴が何匹も威勢のいい所を見せて炭のような指先に白く乘り出してきたので彼は全くいい氣嫌になっていた。
 その時嗄れ聲が近くに聞えてきたのである。
「そうでやす、旦那。ここらが一等の候補地でやすよ」するとそれをうけて阿彌陀聲がぼやく。
「うむ。今の所買占めて來月からでも起工するとしようかね」
 主事は地に片手を棹さし首を長くして二人を怪訝そうに見送った。
「まあ、このことはいずれ……」
 洋服と周衣氏は煙をはきステッキを振りながら向うの方へと立ち去っていった。
 その日から彼はちっとも町へは姿を現わさなくなった。いつにもまして版圖の檢分を嚴重にし、身仕度を終えると彼の小屋が眺められる丘の上へのぼる。そして寢轉んで青空を眺めながらその日その日を暮した。(わっしの領分はあんなにじめじめして狹いのに、空はどうしでこんなに青く廣いのだろう)彼はそれ以來天國に遊ぶようになった。…

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