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蒲寿庚の事蹟
ほじゅこうのじせき
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桑原隲藏全集 第五卷 蒲壽庚の事蹟 考史遊記」 岩波書店
1968(昭和43)年2月13日
初出「宋末の提擧市舶西域人蒲壽庚の事」東亜攻究会(上海)、1923(大正12)年11月
入力者はまなかひとし
校正者米田進
公開 / 更新2003-05-19 / 2014-09-17
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

  本論

   一 大食人の通商

 西暦八世紀の初頃から、十五世紀の末に、ヨーロッパ人が東洋に來航する頃まで、約八百年の間は、アラブ人が世界の通商貿易の舞臺に立つて、尤も活躍した時代で、殊に西暦八世紀の後半に、Abb[#挿絵]s 王朝が縛達 Baghd[#挿絵]d に都を奠めて以來、彼等は海上から印度や支那方面の通商に尤も力を注いだ。
 アラブ人はペルシア灣から印度洋を經、マライ半島を廻つて、今日の廣東へ來て、盛んに通商を營んだ。廣東をその當時のアラブ人は、Khanfou (Khanfu)  と呼んだ。Khanfou とは廣府の音譯である。今日の廣東は唐時代に、廣州とも廣府とも呼ばれた。『舊唐書』『唐六典』を始め、當時の公私の記録に廣府といふ名稱が疊見して居る。
 この廣州の外、嶺南の交州、江南の揚州、福建の泉州にも唐時代からアラブ人が通商を開いて居つた。西暦九世紀の半頃のアラブ地理學者 Ibn Khord[#挿絵]dbeh の著書に、支那の貿易港を南から順次に數へて、Louk[#挿絵]n (al Wakin), Khanfou, Djanfou, Kantou (Kansu) と記載してあるが、この Louk[#挿絵]n は交州、Djanfou は泉州、Kantou は揚州を指したものと思はれる。併し此等諸貿易港の中で、勿論廣州が第一に繁昌を極めた。その有樣は今日でも東西の史料によつて、かなり詳細に知ることが出來る。
 アラブ人の支那通商は、その間に多少の盛衰や、一時の斷絶はあつても、大體から見渡して、唐から五代を經て、宋に至るまで、格別の變化なく繼續した。否宋代となると、アラブ人の通商は一層盛大を極め、又それに關係ある支那方面の記録材料も一層多く傳はつて居る。
 宋は最初廣州、明州(浙江)、杭州(浙江)を外國貿易港に指定して、ここに市舶司を置いて、關税徴收を始め、外國貿易に關する一切の事務を管理した。當時この三貿易港の市舶司を略して、三司ともいうた。併し北宋時代の關税收入の有樣を檢べると、廣州の一港で全關税の十分の九以上を占めて居るから、唐時代と同樣に、北宋時代でも、矢張り廣州の貿易が特に繁昌を極めた事實がわかる。
 所が北宋の末から南宋にかけて、福建の泉州が外國貿易港として、次第に隆盛に赴いて來た。泉州に市舶司の開かれた年代は、多少異説があつても、先づ北宋の哲宗の元祐二年(西暦一〇八七)となつて居るが、事實としては、既に北宋の初期から、外國の貿易船がかなり盛んに泉州へ入港して居る。そは兔に角、泉州が開港されると、泉州は宋時代には福建路に屬し、廣州は廣南東路に、杭州、明州は倶に兩浙路に屬したから、當時これらの諸港の市舶司を總括して、三路市舶司と稱した。
 泉州の開港後四十年許を經ると、宋が南渡して杭州が南宋一代の行在となつた。中世の外國人達が杭州を指…

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