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『二十五絃』を読む
『にじゅうごげん』をよむ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「蒲原有明論考」 明治書院
1965(昭和40)年3月5日
初出「明星 巳年第八号」1905(明治38)年8月
入力者広橋はやみ
校正者小林繁雄
公開 / 更新2011-01-27 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 詩はこれを譬ふれば山野の明暗、海波の起伏なり。新しき歌の巻を読むは、また更にわが身に近くして、さながら胸の鼓動を聴くここちす。今『二十五絃』を繙いて、泣菫子が和魂の帰依に想ひ到れば、この荒びし世をつつむは黄金の靄、白がねの霧――幻夢[#挿絵]ちに湧きのぼれり。
 四季の移りかはりばかりをかしきはあらじ。しかはあれ泣菫子が為めには、こもまた徒なる花の開落にあらずして、人生迷悟の境なりき。花ごよみと品さだめとの軽びたるこころ慰さならで、天啓に親しむ機縁なりき。天啓は熱意の夢に添ひ、大御光は『血しほに染める深手』をも癒すべし。
 されば『魂の住家は大御慈悲の胸』にして
そこには救世の御仏
阿摩の如く
寄り添ふ。『二月一の夜』には病女に似たる夕月をながめ、すさみし旅路を行くにも、なほその御力にひかれて高天の春に行かむとは歌へり。
『五月一の夜』――野薔薇空にくゆりて、まよはし深きところがらを、とみに大御慈悲の光ぞ隠れたる。
わが世は空洞の実なし小貝、
  *  *  *
時劫の浜辺にひとり立ちて、
身にしも逼る海路の
さびしき広みに心いたむ。
も理なかりし。さはあれ『魂にくゆりし大御光のしたたり』はまた
いつかは炎さかりに
燃えこそあがらめ霊の烽火。
おもへば、この日
生身さながら法の身
にしてといふに、信念の熾なるを味ふべく、ここにはじめて『不壊の新代』あり、『解脱の常宮』あり、そはやがて『歌の御園』なるは泣菫子が究竟の理想なるべし。
『神無月の一夜』には至上の光に見とるる和魂の物蔭ほしげの童女さびに、恭謙の柔[#挿絵]の徳を称ふべく、
深山つぐみの古巣に、
孵りもあへぬすもりの
いのちの閉しに思ひうみて
といふに万斛の悲痛こもり、他のおなじく『一日』の歌のかたには、昔は掛想の人、今は幻に箜篌とる[#「箜篌とる」は底本では「箜※[#「竹かんむり/候」、267-12]とる」]天女が『二の世のあけぼの』をかねごとして
『聖なる世をばたのみに
路さまたげをや超えぬべき』と、
あなや高音の中絶に、
しろがね衣飜して
花笑あえかに寄ると見れば、
夢かのここち――
とあるに、すずろにダンテがベアトリチエのすずしき声ねを聞くの思ひあり。この一歌は神韻縹渺、集中この類の諸歌にたちまさりたり。また以上の諸歌は泣菫子が思想を識るによろしければ、われはまづその内容をたづねつるなり。詩品に於ては未だ必しも傑れたりと言ふ可からざらむか。
 曽て高青邱の詩を読みし時、『中秋翫月』の篇中
[#挿絵]蛇亂踏心膽悸、怪影走石皆楓楠、
の句に到りて、はからずも悽愴の気に触れたり。これとは景も情も異れども、『神無月の一日』の第一節に散葉のみだれを叙したる条下は、また同巧のすさび面白からずや。
 白きは神の額の如き野の石に凭れての感想は、げに幾代を人の子の悶えなり。世路の艱嶮と内心のまどひとは、漸くに…

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