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「しゞま」から「ことゝひ」へ
「しじま」から「こととい」へ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 4」 中央公論社
1995(平成7)年5月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-12-11 / 2014-09-21
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

われ/\の国の宗教の歴史を辿つて、溯りつめた極点は、物言はぬ神の時代である。さうした神の口がほぐれかけて、こゝに信仰上の様式は整ひはじめた。歴史も、文学も、其萌しは此時以後に現れたのである。発生期に於ける日本文学を論じる私の企ても、「神語」のはじまつた時を発足点としなければならぬ。
神語を以て、なぜ文学の芽生えと見るか。口頭の文章が、一回きりにとほり過ぎる運命から、ある期間の生命を持つ事になるのは、此時を最初とするからである。われ/\の祖先が、其場ぎりに忘れ去る対話としての言語の外に、反復を要する文章の在る事を知るのは、此神語にはじまるのである。神語以外に、永続の価値ある口頭の文章が、存在しなかつたからである。
神語は、古代人の生活の規範でもあり、知識でもあつた。特殊の人々をして、これが伝承に努めしめて、罔極の祖先から永劫の児孫に及さうとしたのである。而も神語は、代を逐うて増加し、展開し、変転した。其間に通じて変らなかつたのは、其形式が律文以外に出なかつた事である。
散文の、権威ある表現能力を持つて来る時代は、遥かに遅れてゐる。真に国語を以て、国語的発想を自由にした散文は、奈良朝にすら現れなかつたのである。口の上の語として使い馴されて居ても、対話以外に、散文が成立文章として存在する理由がなかつた。記憶の方便と言ふ、大事な要件に不足のあつた為である。神語に散文のものがあると考へるのは空想である。神語の、成立文章として口頭に反復せられる為には、律文でなければならない。が、律文である事を要求したのではなく、本質として律文であつたのである。即たま/\律文であつた事が、神語に成文的の効果を与へ、文学としての展開を導いた訣なのだ。律語形式が神語の為に択ばれたのではなく、神語なるが為に、律文式発想を採らなくてはならなかつたのである。
律語形式の発生を語る前に、「神語」のいまだ発せられない時期に於ける、神の意思の表出法に就いて考へなければならぬ。なぜならば、神語が行はれる時代が来ても、其以前の表出法が交錯して現れるからである。
わが祖先の用ゐた語にしゞま[#「しゞま」は罫囲み]と言ふのがある。後期王朝に到つては、「無言の行」或は寧「沈黙遊戯」と言つた内容を持つて来てゐる。此語が、ある時期に於て、神の如何にしても人に託言せぬあり様を表したのではあるまいかと思はれる。神語が行はれる様になつてからの語であらうが、其以前真に神の語らぬ時期にも、用語例を拡充する事が便利である。
神が、原始的のしゞま[#「しゞま」は罫囲み]に於いて、どう言ふ発想法を採つたか。ある時代の後に、ほ[#「ほ」は罫囲み]なる語で表したと思はれる所の、象徴を以て、我々の祖先は神意の表現せられたものと信じてゐた。(「ほ・うら」の論参照)
現象を以て神意の象徴せられたものと考へ、気分的に会得すべき象徴を、合理的に解…

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