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「とこよ」と「まれびと」と
「とこよ」と「まれびと」と
作品ID47176
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 4」 中央公論社
1995(平成7)年5月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-12-20 / 2014-09-21
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびと[#「まれびと」は罫囲み]と言ひ、其屈折がまらひと[#「まらひと」は罫囲み]・まらうど[#「まらうど」は罫囲み]となると言ふ風に考へて居るのが、従来の語原説である。近世風に見れば、適切なものと言はれる。併し古代人の持つて居た用語例は、此語原の含蓄を拡げなくては、釈かれない。
とこよ[#「とこよ」は罫囲み]の国から来ると言ふ鳥を、なぜ雁のまれびとと称へたか。人に比喩したものと簡単に説明してすむ事ではない。常世の国から来るものをまれびとと呼んだ民間伝承の雁の上にも及んだものと考へられるのである。
古代の社会生活には、我々の時代生活から類推の出来ない事が多い。我々は「わいへんは」の曲や、「珠敷かましを」の宴歌を見ても、明治大正の生活の規範に入れて考へる。社会階級の高い者から低い者を訪問する事を、不思議と感じる事の薄らいで来た、近代とは替つた昔の事である。武家時代に入つて、貴人の訪問が、配下・家人に対する信頼と殊遇とを表現する手段となり、其が日常生活の倦怠を紛す享楽の意味に変化したよりも、更に古い時代の事実である。臣下の家に天子の行幸ある様な事は、朝覲行幸の意味を拡充したものであつて、其すら屡せられるべき事ではなかつたのである。非公式でも、皇族の訪問は虔まねばならぬ事であつた。古代ほど王民相近い様に見えて、而もかうした点では制約があつたのである。
我が国の民間伝承を基礎として、Cupid and psyche type(我が三輪山神婚説話型に当る)の神話を解すれば、神に近い人としての求婚法が、一つの要素になつて居るといふ事も出来る。
まれと言ふ語の用語例が、まだ今日の様な緩くなかつた江戸期の学者すら、まれびとを唯珍客と見て、一種の誇張修飾と感じて居たのが、現代の人々の言語情調を鈍らしたのである。
まれは珍重尊貴の義のうづ[#「うづ」は罫囲み]よりも、更に数量時の少い事を示す語である。「唯一」「孤独」などの用語例にはいる様である。「年にまれなる人も待ちけり」など言ふ表現で見ると、まれびとの用法は弛んでゐる様に見えるが、尚「年にまれなり」と言ふ概念には、近代人には起り易くないまれを尊重する心持ちが見える。
軽薄者流を以てある点自任した作者自身、やつぱり「年にまれなる訪問」と言ふ民間伝承式の考へ方を、頓才問答の間に現してゐるのは、民族記憶の力でなければならぬ。おなじ恋愛味は持つて居ても、「わいへん」の方は空想である。民謡に歓ばれる誇張と架空と無雑作と包まれた性欲とが、ある自信ある期待を謳ひ上げて居る。此は物語で養はれた考へから、稀にはあり得る事と思うてゐた為であらう。まれびとの用語例にぴつたりはまるのは、かうして獲た壻ざねでなければならぬ。私は此も本義に於ける「まれ人」を待つ心の一変形だと考へてゐる。
年にまれなおとづれ人を待ち得ぬ…

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