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わかしとおゆと
わかしとおゆと
作品ID47203
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 12」 中央公論社
1996(平成8)年3月25日
初出「同窓 第九号」1908(明治41)年6月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2008-09-07 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

動詞形容詞一元論のたちばは、おもに、形式のうへにあるのだが、中には、意味のうへにまでも立入つて、其説を主張する人がある。今いはうとするわかしとおゆとの如きは、其屈強な材料なのである。
意味において、形容詞わか・しに対して居るお・ゆが、動詞であるのを見ても、一元なることは考へがたくないといふ。しかし、わかしとおゆとは意味において、しつくり、むかひあうては居らぬ、と、いふと、或はかういふかも知れぬ。それは、形式がちがつて居るからさう感じるので、さまを示すも、わざをあらはすも、もと/\、似たりよつたりのもので、形容詞と動詞とにわかれて居なかつた時代から、ある過程を経た今日のありさまでみれば、なるほど、非常にちがつたものゝ様にも思はれよう。けれど、一元渾沌の時代を推論し得る者には、さのみ、むつかしい問題ではない、といふかも知れぬ。自分は、形容詞動詞一元論を、否定せう、とは思はぬが、尠くとも、わかしとおゆとについては、愚見を陳述する必要を認める。
前に、わか・しとお・ゆとは、しつくりと、むかひあうては居らぬというたが、これはさまとわざとのちがひばかりではない。お・ゆに対しては、わか・ゆといふことばが、古く、見えて居る。
わか・しのわかが、生得の体言であるか、否かは問題であるが、自分は、これはある種類の用言からほかの種類の用言にうつらうとする際に、一時的に体言となつたものであらうと思ふ。
久活・志久活を通じて、形容詞の語根は、多く、ほかの体言なり、用言なりから転じたものゝ多いことは、事実である。自分の考から見ると、高・深・浅・優・近の様なものも、ある用言からほかの用言に転じる際に出来た、一時的の体言にすぎぬ、といふことになるのではあるけれど、今は、これ等についていふ場合でないから、わかだけに、述べる事にする。
自分は、わかといふ語の源に溯つて、わ・くといふ動詞に想到した。
これまでよんだ、きはめてすこしの本のうちでは、まだわ・くといふ動詞に逢着することが出来なかつた。けれども必ず、あつた語に相違ないと信じて居る。
わき―いらつこ
わき―いかづち
わく―ご
などの、わき・わくは、どうも、音転ではない様で、おい―びと、といふのと、わき―いらつこ、といふのとは、語気から見ても、おなじく、連用言のやうだし、わく―ごのわくは、なぐ―矢、いく―弓矢などの如く、連体法のらしく、思はれる。
更に、推量の歩を進めれば、賀茂の別雷神のわけには、若といふ意が、含まつて居はすまいか。神名帳に、賀茂別雷神社、亦若雷とあるのは、有力な証拠である。之を別の字義にばかりかゝはつて説くのは、どうであらうか。上代の人名などに、生成的のものが多いから、このわけなども、或は、其辺から来たもので、わかとかわきとかわくとかの音転で、わけとなつたのであらう。
わ・くといふ動詞こそ見えざれ、い―わ・くといふ語は、立派…

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