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和歌批判の範疇
わかひはんのはんちゅう
作品ID47204
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 12」 中央公論社
1996(平成8)年3月25日
初出「わか竹 第二巻第五・十一号」1909(明治42)年5、11月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2008-08-28 / 2014-09-21
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一「こゝろ」 その一

およそ歌を見、歌を作る上において、必らず心得て置かねばならぬ、四つの段階的観察点がある。
此観察点は、元来作者の側にあるものではなくて、読者としての立ち場から出るものであるが、作者といへども、其作物を、完全なるものたらしめむ為には、出来るだけ自分の作物を客観の位置において、推敲を重ねなければならぬ。即、此場合においては、作者即批評家といふ態度に出なければならぬのである。されば、読者、又は批評家の立ち場において生じた批判の範疇は、作者が其作物を推敲する上においても、当然採用せられねばならぬわけで、前に述べた段階的観察点といふのは、即、此批判の範疇に外ならぬのである。
まづ美的情緒が動いて、ある言語形式を捉へると、此処にはじめて、こゝろが成り立つのである。こゝろは、作者の方においては之を思想といひ、読者の側からは之を、ある形式を通して受納する意味、といふ。繰り返していふと、言語形式を俟つて、ある限界が、情緒の内容を為して居る思想(未だ明に思想といふことの出来ない、甚だ渾沌たる状態にあるもの)の上につけられて、内容が固定して来るので、明確なこゝろは、此処に到つて現はれるのである。
形式の成ると共に、内容が定まる。此処にはじめて、ことばと、こゝろとの対立を見るのである。こゝろすぐれたりだの、おとりたるこゝろがまへだのといふのである。如何なる情緒も、取り扱ひ方、即、形式一つで、すぐれた内容とも、おとつた内容ともあらはれる。情緒と言語形式とは、互に因果関係を交錯することはあるけれども、内容は常に、形式の後に生ずるといふことは納得せられねばならぬ。世の中の歌よみが、こゝろを本とし、ことばを末だとして、容易く両者に軽重を定めて居るのは、今少し考へて見なければならぬと思ふ。かういふ謬見から語法を度外視して居る人もあるが、考へざるの甚しきものといはなければならぬ。勿論、ことばといふ語は、たゞ語法一つを指した訳ではない。歌学の上で、ことばと称へて居るものゝ意味は、いづれ第二において述べるが、此処では、情緒と詩歌の内容との間に、ある時間上、価値上の差別があるといふことを知つて貰ひさへすればよい。つまり従来は、作者の立ち場と読者の立ち場とを混同して居たので、情緒は作者として、こゝろは読者として、といふ風に、原因と結果との相違がある。作者として採るべき態度は、情緒とことばとの結合する処において、非常の苦心、努力を用ゐることで、此因果関係の交錯して居る二元の取扱ひに、間然する処があつたとすれば、二つのうちの、いづれかゞ強きに失して、他の一つが、之に伴はなくなる。此工夫が即、趣向といふのである。趣向とことばとが一致しなかつた時は、不調和が生ずる。古人が、詞、心に伴はずとか、詞すぐれたれど心おくれたるなりとかいうて居るのは、此出発点における、工夫の足らなかつ…

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