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二人の男
ふたりのおとこ
作品ID47208
著者島田 清次郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「編年体大正文学全集 第九巻 大正九年」 ゆまに書房
2001(平成13)年12月10日
初出「新潮 第三十二巻第一号」新潮社、1920(大正9)年1月1日
入力者西村達人
校正者岩澤秀紀
公開 / 更新2012-03-28 / 2014-09-16
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 九月のある朝。初秋の微風が市街の上空をそよそよとゆれ渡つてゐた。めづらしく平穏な朝で、天と気は澄みわたり、太陽の光りが輝やき充ちてゐた。北輝雄は未だ夏期の暖みの去らない光明を頭からいつぱい浴びながら、無細工な大きな卓机にもたれかゝつていゝ気持でうつとりしてゐた。やうやく三十分前ばかりに眼を醒ましたところだつた。彼の勉強室でもあり、仕事室でもあり、応接室でもあり、また食堂でもあり、一日の働きの疲労をねぎらひ、新しい次の日の精力を恵んで呉れる寝室でもあるその一室には、未だ昨夜からの薄ぎたない寝床がそのまゝに敷かれてあつた。窓際からは、本郷の高台の深い樹木の茂みや折り重なつた建築の断層が蒼い天の下に見え、窓先の無果樹の大きい葉がそれらの視望をゆすぶつてゐた。彼は決して、八畳の部屋に雑然と置かれた卓机や、書架や、一方の壁にはりつけてある世界地図や天体の星図や、地図の上にかゝげてある耶蘇と釈迦の肖像などと部屋の中央に敷かれてある夜具の不調和を見ないわけではなかつた。いつもだつたら彼等自身への申分けのやうに、顔を苦々しくしかめて夜具を押入へ投げ入れ、庭園の井戸端へ出て冷たい水を浴びて来なくては承知しなかつたであらうが、今朝は、ふつと眼を醒ますと、さあつと朝光の流れがまともに彼の頭上に溢れかゝつてゐたのだ。昨夜雨戸をしめることを忘れて寝た偶然が思ひがけぬ喜びの因となつたのである。彼は蒼い天に輝く太陽を仰いだとき自分は祝福されてゐると信じないわけにゆかなかつた。この天と太陽は今朝は自分一人のために自由で無果で偉大で熱烈であるのだと思はずにゐられなかつた。それ故彼はむつくり起き上がつて椅子に腰かけ卓机にもたれかゝつたまゝ、一切から解放された美はしい光輝にうつとりしてゐた。微風がそよぐたびに、無果樹の緑紫の色葉がゆれるほか、この瞬間の彼自身にとつて全宇宙と雖も何するものであらう!
「いゝな。」
と彼は無意識にうなづいた。あゝ、生気と力と美に荘厳されたこのひとゝきの世界よ。
 が、このひとゝきは、自ら生じた何故とも知らぬ深い大きい溜息で破られ、彼の魂に不快な暗い陰影が生じて来た。それは魂の高揚と充実がほぐれかゝる空隙にしみいる悲痛な、暗い生活の陰影であつた。(何故自分はこの壮大な歓喜に永住することをゆるされないのであらうか。何故自分はこの悦ばしき高揚に脈うつてゐられないのであらうか。)彼はまた深い大きい溜息をついた。もう歓喜の波は遠のいてしまつて、悲壮な気持が、彼の苦闘と勝利につらなる現実の生活に対し、堅い堅い「きつと勝つて見せるぞ」と云ふ信念となつて相対してゐた。
 彼の部屋はある旧華族の有つ果樹園の中の一室きりの平家だつた。以前、この果樹園の持主が本気で果樹の栽培をやつてゐた時分は手軽な休み所として建てたものであつたらしいのを、今年の春以来、自分の住居として借りてゐるのであ…

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