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三つの挿話
みっつのそうわ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本幻想文学集成19 神西清」 国書刊行会
1993(平成5)年5月20日
入力者門田裕志
校正者Juki、小林繁雄、川山隆
公開 / 更新2008-01-15 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 A氏は南露出身の機械技師である。北鉄譲渡の決済事務で東京へやつて来てから二ヶ月ほどたち、そろそろ日本人の人情にも慣れ気持のゆとりも出来てきたので、平気で一人旅をするやうになつた。これも、A氏がある工場へ買付品の検収のため旅行したときの挿話である。
 その二等車は大して混み合つてゐたわけでもなかつたが、A氏の向ひは空席ではなく一人の若い日本の令嬢が腰を下ろしてゐた。この令嬢は始発駅で発車間ぎはにすうつと乗り込んで来て、ほかに適当な席も見当らなかつたのだらう、別にこだはる様子もなく外国人であるA氏の前に席をとつたのである。持物といつたらハンドバッグ一つきり、連れがあるかと思へばさうでもない。黒いスーツに黒い外套、それを細つそりした身に上品に着こなしてゐる。席につくなりA氏に一瞥を与へるでもなく、窓外へ眼をそらした。
 尤もA氏の方でも、この令嬢を初めからじろじろ眺める非礼を敢てしたわけではない。彼はだいぶん時代のついたボストン・バッグから、今朝事務所で受けとつた妻の便りや新聞や、また検収に必要な規格上の要項やさうしたものを取り出して読み耽つた。二時間ほどして、もうほかに読むものがなくなつたとき、思ひ出したやうにポケットの煙草へ手をやりながら、はじめて向ひ側の令嬢に注意したのである。
 彼女は相変らず窓外の景色に所在なささうな眸を放つてゐる。A氏には彼女が、乗り込んだ時から身じろぎもせずにその退屈な姿勢をとりつづけてゐるもののやうに見える。うち見たところ教養も豊かに具へてゐるに違ひないこの令嬢が、雑誌一つ開くではなくぼんやりと窓外へ眼をやつてゐるのが、ひどく不思議なやうな気がした。いや、不思議といへばそれだけではない。よく見ると、西洋の鷹匠のかぶるやうな黒い帽子で半ばかくされてゐるその額が、思ひなしか妙に蒼ざめて深い憂愁を湛へてゐるやうにさへ見えるのである。光線の具合かな、とA氏は思つた。だがそれにしても……。
 一体A氏は日本の令嬢なるものをしげしげと観察する機会にめぐまれたのはこれが初めてなのである。来朝以来、公けの席などで芸者といふものを恰も日本の代表的女性のやうに誇示される機会はあるにはあつたが、正直のところA氏はこの種の女性には怖毛をふるつてゐる。不自然な結髪、生彩のない厚化粧、そして何よりも堪らないあの髪油の匂ひ、といふよりも寧ろ臭気。さうした死んだ美を敢て外国人に誇示する日本人の心理を、寧ろ怪訝なものにさへ思つてゐる。といつて日本の家庭に縁のないA氏は、銀座や劇場などで見かける溌剌とした令嬢に、わづかに日本女性の生ける美を見出して来たに過ぎない。
 しかし、いま眼のあたりにするこの令嬢は、少くもそれら嬉々とした令嬢群とも選を異にしてゐるやうである。ひよつとしたらこれは、日本の智的な女性の代表的タイプの一つかも知れない。憂愁の底に一種をかし難い気品が…

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