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酔ひたる商人
よいたるしょうにん
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「水野仙子集 叢書『青鞜の女たち』第10巻」 不二出版
1986(昭和61)年4月25日復刻版
初出「文章世界」1919(大正8)年7月
入力者林幸雄
校正者小林徹
公開 / 更新2003-01-23 / 2014-09-17
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

        一

 東北のある小さな一町民なる綿屋幸吉は、今朝起きぬけに例の郡男爵から迎への手紙を受け取つたのであつた。それはいつものやうに停車場近くの青巒亭といふ料理屋からの使であつた。幸吉はこの朝早々の招待を、迷惑に思はないでもなかつたけれど、酒の味も滿更厭ではなかつたし、それに男爵から迎へられるといふ事が内心ひどく得意でもあつた。それですぐに參上致しますと口上で使をかへしてから、小僧を督して暖簾を掛けたり、品物を街路から目につくやうに並べたりして店附を整へた。それから出來たての味噌汁で舌を燒きながら急いで朝飯をすました。彼はさて出かけようとして店先を二三間離れながら、いつものやうに一二度はそれからそれからと胸に浮んで來る用事のために帳場に引き返した。
 十一時頃に、幸吉は非常な上機嫌で町はづれの停車場から町の方へと歩いてゐた。男爵は、昨日仙臺に行く途中ふとこの町に泊らうといふ氣になつて降りたのだといつて、どてら姿で薄い髮の毛に櫛の齒を入れてゐるところであつた。それからすぐに朝飯ぬきの酒がはじまつた。格別用事といふ程のものがあるのでもなかつた。たゞ仙臺ではじめようかと思つてゐるある事業に就て、幸吉に意見をきいてゐた。つつましく酒の對手をしながら、幸吉はその話をあまり眞に受けては聞かなかつた。たゞ大體に於てそんなものはなるべく手を出すものではないといふやうな忠言をほのめかした。男爵は酒が強かつた。そして盃が重なれば重なる程腰が坐つて來て、なに仙臺に行くのはあながち今日でなくともよいと言ひ出しさうだつたのを、幸吉はうまい工合に抑へて、たうとう十時幾らかの汽車で閣下を立たせてしまつたのであつた。
 少し飮み足りない位の程度の酒が、幸吉を非常に輕やかな愉快な氣持にしてゐた。男爵が自分如き者のいふなりになつたのも愉快だつたし、又無茶な金を使はせずに(青巒亭は旅館ではあるけれもまた料理屋兼藝妓屋でもあつた)立たせてやつたといふ事が、大變いゝ事をしたやうな豪い氣持がするのであつた。
 木綿縞の羽織を着た彼の外出姿は、(この地方の商人は大抵一家の主人でも、ふだんは羽織などを着てゐない)、持前の猫背を如何にもまめまめしく見せ、その丸い背中は、兩手を腰のあたりまで下げてするお時儀の形にちようど恰好の取れるものであつた。彼は元氣な聲で、途で行き合つた知人や知合の店先やに挨拶を交して通つた。そんな時に、彼の顏は赤かつたにも拘らず、少しも醉つてゐるやうな氣振は見せなかつた。この明るいまつ晝間、めでたい祝儀にでも招ばれた譯でないのに、晝日中醉うて歩いてゐるさまを人に見られるなどは、常々の自分の勤勉に味噌をつけるものだと彼は固く信じてゐた。どんな場合にも醉うて醉はぬ本性が大事である、どんなにぐるりが目茶苦茶に面白く愉快に思へる時でも、本心はぴたりと坐つてゐて、うつかり人に冒される…

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