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税所敦子孝養図
さいしょあつここうようず
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「青眉抄・青眉抄拾遺」 講談社
1976(昭和51)年11月10日
入力者川山隆
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2008-06-03 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 日露戦争が終ってから間もなくのことであった。
 わたくしのあと継ぎの松篁が行っている初音小学校の校長先生が、わたくしの家を訪ねて来られて、
「学校の講堂に飾って置きたいのですが、ひとつ児童たちの教訓になるような絵を是非描いて寄贈してほしい」
 と、言われた。
 非常に結構な話であり、一枚の絵でもって何千何万の児童に良い影響をあたえられるとすれば画業にたずさわるものとして、この上もない悦ばしいことであるので、わたくしはお引受けしたのであるが、さて教訓的なものとなると、何を描くべきかに迷って、当座は筆をとらずに、画材について、いろいろと思案をして日を送ってしまったのである。
 その後、校長先生は再三お見えになって、頼まれるのであったが、どういうものを描こうかと考え考え、なかなかにそのおもとめに応じて筆をおろすことが出来なかった。

 ある日、たまたま読んでいた本の中に、次のような歌があったのが、いたくわたくしの心にふれたのである。
    朝夕のつらきつとめはみ仏の
       人となれよのめぐみなりけり
 まことに、いい歌であると思ったわたくしは、その歌の作者が、税所敦子女史であることを知って、はたと画材をつかんだのである。
 近代女流歌人として、税所敦子女史の名はあまりに名高い。が、その名高さは、女史の歌の秀でていることによるのはもちろんであるが、女史はまた孝の道においても、人の亀鑑となるべき人であったからである。

 はじめ、女史はその歌道を千種有功卿に学んだが、二十歳の年に縁あって薩摩の藩士、税所篤之氏に嫁いだのである。
 しかし薄幸な女史は八年のちの二十八歳に夫に死別されたのである。
 女史は夫篤之氏の没後、薩摩に下って姑に仕え、その孝養ぶりは非常なもので、ここでいちいち列挙するまでもなく、身をすてて、ただひたすらに姑につかえ、自らをかえりみなかったのである。
 のちに(明治八年)その才を惜しまれて、女史は宮中に出仕する身となり、掌侍に任じられ、夫や姑のなきあとは歌道ひとすじにその身を置いたのであった。

 わたくしは、税所敦子女史の、この至高至純の美しい心根を画布に写しながら、いく度ひとしれず泪をもよおしたか判らなかった。夫の没後、わざわざ遠い薩摩の国に下って、姑のために孝養のかぎりをつくした女史の高い徳こそ、次代の人となる幼い学童たちに是非味わわせてあげなければならぬと思いながら、夜もろくろく寝ずに描き上げると、わたしは、何とも言えぬ愉しい気持ちで、その絵を初音校へ贈ったのである。
 絵の出来たのは明治三十九年、あれからもう三十八年になるが、その間数多くの学童たちが、あの絵をみて、女史の孝養ぶりをうなずいていてくれていることを思うと、わたくしは今でも、あの絵を完成したときの悦びを味わうことが出来るのである。



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