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浅間山麓
あさまさんろく
作品ID4736
著者若杉 鳥子
文字遣い新字新仮名
底本 「空にむかひて 若杉鳥子随筆集」 武蔵野書房
2001(平成13)年1月21日
初出「都新聞」1934(昭和9)年7月28~29日
入力者林幸雄
校正者小林徹
公開 / 更新2003-04-15 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 落葉松の暗い林の奥で、休みなくかっこうが鳴いている。単調な人なつっこいその木霊が、また向こうの山から呼びかけてくる。七月というに、谷川の音に混じって鴬がかしましく饒舌している。然しここでは、鴬も雀程にも珍しく思われない。
 谷あいの繁みをわけてゆくと、一軒の廃屋があった。暗い内部には、青苔のぬらぬらした朽ち果てた浴槽があって、湯が滾々とあふれている。手を触れる者さえなくて、噴泉は樋をつたい、外の石畳に落ち、遠く湯川となって、葦の間を流れてゆく。足を浸すと、ぬるい湯が黄色い繊毛と共に纏わり、硫黄の香が漂う。花はまだ季節が早いのか、燕子花や、赤い蝿取り草ぐらいしか咲いていない。その間に、この辺の人が焼酎に浸けて喰べるというすぐりが、碧い透きとおった飴球のような実をつけている。時々野薔薇がむせぶように高い香を送って来た。白樺や落葉松の間の、溶岩の散らばった路を上って行くと、急に平らな丘の上に出て、浅間はもう眼の前に噴煙をあげていた。遠く見れば、浅間はただなだらかで端正に裾をひいているが、近づいて見ると、緑色の上着の胸を寛げて、自己の履歴を語るように、焼け爛れた赤錆色の四角な肌を露出している。
 私の泊まった家は、病院であって宿屋なのである、いえ宿屋で病院だという方が適当かも知れない。余り病院くさくならないように、消毒液でも臭気のしない高価なものを使うとはいっているが、浅間山の頂を前にした古い田舎屋が病棟なのである。朝早くから百姓のお婆さん達が、病児を背負って遠い道を歩いてくる。診察に来たお婆さんがいうには、
「以前はなァあんた、少し重い病人だと長野までゆきやしたが、近頃はナ、盲腸でも何でも此処で手術して貰えるで、へぇみんな、ずんずん達者になりまさァ」
 その有難い院長さんはどんな人かというに、外科手術が多いというから、誰でもあらゆる外科医のタイプを想像してみるだろう。処がそれは、大一番の丸髷に赤い鹿の子のてがらをかけた、たわやかな美人なのである。
「恐いね、女の外科手術なんざァ」泊まっている学生たちが手術室を窺いて、そんな失敬なことをいっていた。然し赤ん坊を抱いた、うら若い花嫁が、白い手術衣を纏って、メスを持ってる姿なんか、とても想像できない。午後は往診の自動車が来て、「サ、坊や、お母ちゃんの往診」御亭主が若い妻の手から赤ん坊を抱きとると、大丸髷の院長さんは、一人の看護婦に鞄を持たせて悠然と車に乗り込む。
 夕方はまた夕方で、いろんな患者がこの若い女医をめがけて飛び込んでくる。霧の深いある昏れ方、赤ん坊を抱いた百姓のおかみさんが、汚れた野良着のままで自動車に乗って駈けつけて来た。赤ん坊を便所へ堕したんだという。生みおとしたんではなく、今は農家が忙しく手廻りかねている隙に、自分から這い込んでしまったという。若い女医は看護婦からそれをきくと、結い立ての艶やかな髪をあ…

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