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第一義の道
だいいちぎのみち
作品ID47374
著者島木 健作
文字遣い旧字旧仮名
底本 「島木健作作品集 第四卷」 創元社
1953(昭和28)年9月15日
入力者Nana ohbe
校正者土屋隆
公開 / 更新2010-09-11 / 2014-09-21
長さの目安約 77 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「もう何時かしら」と眼ざめた瞬間におちかは思つた。思はずはつとした氣持で、頭を上げて雨戸の方を見た。戸の外はまだひつそりとして、隙間のどの一つからも白んだ向うはのぞかれはしない。安心して、寢返りを打つたが、まだどこか心の焦點のきまらぬ氣持で眼をしばたたいてゐると、闇のなかに浮動する樟腦の匂ひがかすかに動いた部屋の空氣につれてほのかに鼻さきににほうて來た。すると急にさめてきた心にどきんと胸をつく強さで今日といふ一日の重さが感じられた。血がすーつと顏から引いて、動悸がしだいにたかまつて來た。おちかは布團をずり下げ、上半身を乘り出して手をのばして枕もとをさぐつてみた。ゆうべ寢るとき取り揃へておいた衣類やその他身のまはりのものがそのままそこにある。それらを一つ一つさぐつてみてゐるうちに、昨夜夜ふけてひとり起き、羽織の乳に紐を通しなどしたとき胸にわいた思ひが、今またしみじみとしたものとして生きかへつて來るのだつた。その思ひにあたためられ、六十を越えた齡にあけがたはもうかなりに冷えをおぼえるこのごろの季節なのが、今朝はさほどの苦にはならなかつた。手足をのばし、おちかは少時うつとりとしてゐた。が、すぐに小きざみにからだがふるひ出し、ふるひは容易にとまらなかつた。根のゆるんだ齒がかたかたと音をたてて鳴つた。汗さへ流れでて來るやうであつた。ふたたび寢がへりをうち、のばしてゐた手足をまるめて何かだいじなものを抱くやうな氣持と姿勢でおちかはぢつとたへてゐるのであつたが、それはなにも寒さからではなかつた。間もなく時計が五時をうつた。
 おちかは掻卷のまま寢床の上に起き上つた。肩をすぼめ、首を垂れ、兩手を胸のあたりで組むやうにして坐つた。自然に祈りの心になつた。はずんで來る呼吸のみだれをととのへることができなかつた。たうとうその日が來た、と、さうせねば一度つかみかけたものも手からずり落ちてしまひさうなあやふやな氣持で、おちかは自分に言つて見た。なんといふ長い五年の月日であつたことだらう! 今となつてふりかへつてみれば、ただもうわるい夢を見つづけて來たやうなものだが、五年前のその日はるかに今日の日をのぞみみたときには、考へてみただけでもう精魂の盡きはてるおもひがするのであつた。
「なあに、過ぎ去つてみれば短いもの、案じるほどのことはありやしない、よしんば案じてみたところでなるやうにしきやならないんだから。」
 からくもふるへる聲で自分自身に言つた。そばかすのある顏は青ざめ、眼はどこかあらぬ方を眺めてゐるやうであつた。今までとても世のいざこざのすべてをその考へ一つで押し切つて來た六十年の老の經驗が、この際も一應はおちかの氣をしやんと立てなほしたかに見えたのであつたが、さてその日から實際にはじまつた一日一日は信じがたいほどの重さでのしかかつて來た。一日明ければもうその瞬間から明日の日を待ち…

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