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旧師の家
きゅうしのいえ
作品ID4738
著者若杉 鳥子
文字遣い新字新仮名
底本 「空にむかひて 若杉鳥子随筆集」 武蔵野書房
2001(平成13)年1月21日
入力者林幸雄
校正者小林徹
公開 / 更新2003-04-15 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私が故郷の街から筑波山を見て過ごした月日は随分と永いことだった。
 その麓には筑波根詩人といわれている横瀬夜雨氏がいた。故長塚節氏がいた。
 そこから五六里の距離にある故郷枕香の里(古名)の青年間にも文学熱が盛んだった。私もいつかそのお仲間に入って詩や歌を作るようになった。そしてその頃河井醉茗氏の主宰していた女子文壇に投書していた。それを機会に横瀬氏から幼稚な汚い原稿を添削して戴いたり、質疑に対して通信教授をして戴いた。その頃夜雨氏には多くの女のお弟子があった。女子文壇は今の文壇に多くの女性作家を送った。その頃の文壇には、自然主義の運動が勃興していた――私はそうした少女時代の追想に耽りながら、結城の街から自動車に揺られていた。
 私がまあ横瀬夜雨氏を訪ねたいと思っていたのは何という永い間の宿望だったろう。
 少女時代に東京へ出てしまって、時々国へ帰りはしたが東京にいる間は自由なお転婆な自分であっても、一度故郷へ足を踏み入れると、真綿で頸を締められるような老人連の愛情のとりこになって、周囲から降るような干渉を浴び、一歩も他へ出られない中に、いつでも予定の日数が尽きてしまう。
 そういった工合で決して夜雨氏を訪ねる希望が果たせないのだった。
 その中にとうとう私は夜雨氏の信用を失ってしまった。余り度々師を失望させたからだ。
 乗合自動車は街を出外れると、細い田舎道を東へ東へと疾駆した。動揺の激しい時は、車ごと水田の中に抛り出されそうになった。
 麦の穂を渡ってくる青い風は、何という新鮮な野の匂いを誘ってくることだろう。
 道の曲がり角、曲がり角には、道しるべのように雨引観世音と刻んだ小さい碑があった。
 れんげ草の花が、淡雪のように春の野を埋めていた。
 停留所ごとに、小さい赤旗が百姓家の軒に顔を出している。手拭を冠った、野良着のまんまの農家の主婦が、裾をはしょって、急に自動車の行手に立ち塞がったかと思うと、右手を挙げて、「ストップ」と叫んだ。
 そしておかみさんは私の隣席へ腰かけた。私は今更のように、自分が故郷にいた頃からの時代の進展を見せられたように感服する。
 鬼怒川を渉った頃から、セルの羽織に鳥打ちをかぶった芸人風の男が四五人同乗した。絶えず小唄みたいなものを口ずさんでいた。女が向こうから寒そうに橋を渡ってくると、男達は何とか叫んで媚を送った。
 沙沼を見て過ぎると、自動車は下妻の街に入った。東京連鎖劇一座という長方形の色の褪めた赤い旗が、ペロリと一枚、事務所のような建物の前に垂れていた。
 その日は曇ってはいたが、水田の彼方に筑波は長い裾をひいて平和な姿に煙っていた。
 もうそこから横瀬夜雨氏のお家はいくらもない。古い大きな門を入ると、障子の硝子から此方を覗いている師のお顔があった。
 小さい百合子さんが喫驚した顔をして私を見つめていた。
 南向きの…

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