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沼夫人
ぬまふじん
作品ID4742
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「泉鏡花集成5」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日 
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2011-04-29 / 2014-09-16
長さの目安約 82 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「ああ、奥さん、」
 と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内は真暗で黒白が分らぬ。寝てから大分の時が経ったらしくもあるし、つい今しがた現々したかとも思われる。
 その現々たるや、意味のごとく曖昧で、虚気としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束ないが、
「ああ、奥さん、」
 と返事をした声は、確に耳に入って、判然聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体のどっかが、がっくりと窪んだ気がする。
 そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。――呼んだのは、室の扉の外からだった――すなわち、閨の戸を音訪れられたのである。
 但し閨の戸では、この室には相応わぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋室……と云うが、この部落における、ある国手の診察室で。
 小松原は、旅行中、夏の一夜を、知己の医学士の家に宿ったのであった。
 隙間漏る夜半の風に、ひたひたと裙の靡く、薄黒い、ものある影を、臆病のために嫌うでもなく、さればとて、群り集る蚊の嘴を忍んでまで厭うほどこじれたのでもないが、鬱陶しさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。
 ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を被っても、成るべくは、蛍、萱草、行抜けに見たい了簡。それには持って来いの診察室。装飾の整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋跣足で歩行かれる絨氈が敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや褪せた、緑の窓帷が絞ってある。これさえ引いておけば、田圃は近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰臥かせて、内の国手が聴診器を当てようという、寝台の上。ますます妙なのは蚤の憂更になし。
 地方と言っても、さまで辺鄙な処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦斯が窓越の森に映って、薄ら蒼くぱっと点いていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突立って、捻って、ふっと消した。
「何、この方が勝手です、燧火を一つ置いといて頂けば沢山で。」
 この家の細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい紅い扱帯、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋燈をそこへ、……
「いいえ、お馴れなさらないと、偶とお目覚めの時、不可いもんですよ。夫でもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって可いてって、此室へ臥りましてね、夜中に戸迷いをして、それは貴下、方々へ打附りなんかして、飛んだ可笑しかったことがござんすの。
 可笑いより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから宜しかったようなものの、私どもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような切を掛けて蔽にしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、…

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