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旅役者の妻より
たびやくしゃのつまより
作品ID47441
著者矢田 津世子
文字遣い新字新仮名
底本 「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」 講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年4月10日
初出「文学界」1934(昭和9)年8月号
入力者門田裕志
校正者高柳典子
公開 / 更新2008-09-15 / 2014-09-21
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 暑い暑い言うたのも束の間にてもはや秋風たちはじめ、この頃では朝夕膚さむいようになりましたが、まことに久しくおたよりも致さず、あね様はじめ小さい菊ちゃんにもお変りもあらせられませんか。おうかがい申上げます。思えばいまだ暑い盛り、油津よりおたよりいたせし以来今日まで何らの音信もいたしませず、さだめし、いずこいかなるところをさまよい居るかと雨につけ風につけお噂にのぼりお心なやませし御事と今更のように相すまぬ心地がいたします。いつも御地のこと心にかかりつつも余りに浅間しく悲しき身の上に、いつもいつもつい一度として嬉しきたよりは聞えあげぬこととて、何んとか身の落ちつきのついてからと一日一日と長びきて加様に御無沙汰いたせし次第、何卒御免下され度候。
 あね様。
 おたよりせなんだ約百日ばかりの間、言葉につくせぬ苦労をなめました。
 日向路さしてさまよいこんでよりつい一日として好い事とてはなく、慣れぬ水、慣れぬ気候にあてられて親子三人が病いの床につく有様、わたくしは昨冬弓子の産後の不養生が今にさわりて痩せ衰え、ひきこんだ風邪がいまだにぬけず、朝夕の苦しい咳といったら、胃の腑までもつきあがってくる思い、良人にも勧められて仕様ことなく診察してもらいましたところ慢性の気管支かたるとのこと、余りに烈しく咳する時は肺にかかる怖れがあるとの医者の言葉、良人はまた良人で当地方の気候にまけ脳をわるくする始末、夏の初め、舞台で卒倒して以来体の衰弱がはなはだしく、果ては寝こんで舞台を休む様な悪運つづき、加うるに鶴江まで疫病にかかり発熱して食べものがそのまま出るというような有様にて、悲惨と申すも言葉の現わしようもなく、何事も前世にて犯せし罪の報いと諦めて居りました。
 余りの事に良人も心細くなりましたものとみえ、しきりに岡村へ皈りたがり、おれも、もう五年も皈らぬし、伊助も休暇で皈る頃故あれの顔もみたいから一度戻ってみようではないか、達者になったら今度は岡村の近く、呉近所で働こう、何よりも生れた土地の近くが一等だ、など言いまして涙ぐむ仕末に、わたくしも心動かされ、旅費には困るけれど幸い大阪直行の汽船が三津につきます故、荷物を売り払ってでも皈ろうと存じ、岡村のあに様へ加様の次第故加様に思うていると言ってたよりを出しましたところ、あに様よりの返事には今、落ちぶれた姿で皈られては世間への手前もあり考えものである。自分にとってはたった一人の血を分けた弟であるし、そんなに困っているなら何んとかつくしたいのは山々であるが、何せ伊助も商業へ出していること故なかなか金がいるし、それに当今はゴム靴ばやりの事とて店の方もとんと売れゆきが減り、自分も永年の下駄商にみ切りをつけて靴の方へ手出しをしてみようかと思っている矢先きだから資金の調達をせねばならず、心に思うばかりにてつくせぬのはざんきの至りである、加様な有様な…

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