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ノンシャラン道中記
ノンシャランどうちゅうき
副題07 アルプスの潜水夫 ――モンブラン登山の巻
07 アルプスのせんすいふ ――モンブランとざんのまき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「久夫十蘭全集 Ⅵ」 三一書房
1970(昭和45)年4月30日
初出「新青年」1934(昭和9)年7月号
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2009-12-26 / 2014-09-21
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 一、鼻には鼻、耳には耳――現品取引。エークス鉱泉駅に約十分滞留したのち、汽車はブウルジェの湖畔の、水陸間一髪という際どいところを走っている。
 車窓に蘆の葉がなびき、底石の青苔や、御遊泳中の魚族の鱗のいろも手にとるように見える。対岸、オオト・コムブの鬱蒼たる樅の林は、そのまま水に姿を映し、湖上の小舟は、いまやその林中に漕ぎいるのである。
 汽車は水に浮び、舟は山に登る、この意外な環境に恐悦してしきりに喝采しているのは、登山用具で身をかためた男女二人の若い東洋人。幾百千とも知れぬ小魚が、くるくると光の渦を巻きながら魚紋を描いているのを指して、鮒じゃ、鯉じゃ、といい争っていると、
「はい、今日は」といいながら寄って来たのは、鉄縁眼鏡をかけた半白の老人。村役場の傭書記、小学校の理科の先生、――そういった実体な人物。
「ご清興をおさまたげいたしまして申し訳もありませンが、ぜひともお耳に入れたい事がござります、と申しまするのは、……」と、声をひそめ、「実は、あなたがた、お二人さまの生命に関する重大な報告を持参いたしたからでござります」
 聞き捨てならぬ、と二人は思わずその方へ乗り出すと、
「ささ、お見受けいたしますれば、これはアルプス登攀のご途中と拝察されますが……」
 すると、厚手の毛織上衣に革の脚絆をしたうら若き東洋的令嬢、喉もとから腰のあたりまで巻きつけた登山綱をポンとたたいて、
「ええ、ご覧の通りよ」と、涼しげにいい放った。鉄縁眼鏡は天を仰いで嘆息し、
「ああ、天なるかな、命なるかな、……まことに申しにくいことながら、これから手前が申しあげまする条々、よウく心をしずめてお聞きとり下さい。……そもそもアルプスの山神と申しまするは、その昔、天の火を盗んだ百罰として、コウカサスはエルブルュスの巓につながれましたるプロメシウスの弟御パラシュウスと申す猛々しいお方でござります。されば山の犠牲としてご要求になる人命と申しまするものは、一年にだいたい二百六十個、片足だけお取りあげになったものは千八本、前歯が六百枚、耳が七十三対という有様でございます。とりわけお好みになりまするは、各国、各人種のお初穂でございまして国別にいたしましてその国の最初の登山者の人命は、必ずお取りあげになるというのが古来アルプスの山の掟でございます。例を申しますなれば、エドワアド・ウイムバアは最初の英吉利人、ハンス・ジムメルマンは最初の墺太利人、アブ・アッサンは最初の土耳古人でございました。お見受け申しますれば、フィリッピンとかマニラとかあのへんのお方と存じますが、アルプスの記録にはフィリッピン人が登山したという事実はまだ記載されていないのでござります。さすれば、お二人さまはそのオ、フィリッピン人の初品になるわけでござりますが、ああ、して見れば、お二人さまの生命と申しますものはさながら風前の瓦斯灯、…

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