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火の踵
ひのかかと
作品ID4752
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-09-21 / 2014-09-17
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ……音楽爆弾。
 突然、その言葉が頭の一角に閃光を放つと、衝撃によろめくやうにしながら人混のなかで立留まつてゐた。たつた今、無所得証明書とひきかへに封鎖預金から千円の生活費を引出せたので、その金はポケツトの中にあつた。それほどの金では一ケ月の生活を支へることも不可能だつたが、その金すら、いつ紙屑同然のものと化するかわからない。今も今、ポケツトの中の新円は加速度で価値を低下しつつある。それどころか、たしかに彼のやうな男の生存をパツと剥ぎ奪つてしまふ不可知の装置が、彼の感知できない場所で既に着々と準備されてゐる。――さうした念想が踵の方まで流れかけてゆくと左右の雑沓が急に緊迫して音響を喪つてゐた。
 ……音楽爆弾。
 突如、その言葉が通り過ぎると、冷やりとした一瞬がすぎ、眼の前の雑沓はまた動きだしてゐた。彼の体も二三歩動きはじめた。だが、脳裏を横切つた閃光は、遙か遠方で無限に拡大してゆくらしく、それを想つただけでも耐らなく頭が火照る。体全体が熱と光のくるめきに、つん裂かれさうになつた。いけない、いけない、と彼は努めて平静を粧ひ、雑沓の中を進んだ。が、爆発しさうなものは爪さきまで走り廻つた。
 省線駅入口に向ふ路が露店を並べて狭まつてゐた。彼はライター修繕屋のテーブルに眼をとめ、ピカピカ光る金属を視つめた。(今、何ごとも発生してはゐない。すべてはもとのままではないか。)だが、衝撃は刻々と何処かで拡大されてゆくやうにおもへた。もう一度、遭難地点を吟味するやうに、さきほどから自分の歩いてゐる場所を振りかへつてみた。銀行から電車通を抜けてK駅にむかふ路の入口まで来たとき、恰度その時、突然あの言葉が閃いたのだつた。
 その言葉の発想とともに無数の連想の破片が脳裏に散乱した。最初、音楽爆弾の言葉が浮ぶと同時に閃いた考は、すべて有機体は音楽に依つて影響を蒙るといふ仮説だつた。それなら、無機物も音楽の特殊装置によつて自在に変化できる。その装置による微妙な音楽は原子核をも意のままに操作配列さす。そして、この方法によつて発生する魔力は遂には全く人間の想像を絶したものになる。それは……、そして……、それから……、それらは……。この奇妙な着想とともに、その魔力が既にぞくぞく彼の肉体に影響してくるやうな錯覚と、それから、いつも彼の脳裏にある、あの広島の体験と、こんどの音楽爆弾の予感がひどく混乱して、何か制しきれない苦悩を叫んでゐた。
 ……アダム
 突然、一つの名称が奇蹟のやうに浮んだ。それは嘗て酸鼻と醜怪をきはめた虚無の拡がりの中に、底抜けの静謐を湛へてゐる青空を視たとき、不意と彼の念頭に浮び、それきり発展しなかつたアイデアであつたが、その名称が今何か救済のやうに思ひ出された。
(さうだ、アダム……。音楽爆弾の空想は君にまかせよう。君はあの死体の容積が二三倍に膨脹し、痙攣がいたるとこ…

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