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鎮魂歌
ちんこんか
作品ID4755
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者大野晋
公開 / 更新2002-09-22 / 2014-09-17
長さの目安約 58 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。深い空の雲のきれ目から湧いて出てこちらに飛込んでゆく。僕はもう何年間眠らなかつたのかしら。僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる。息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は、ここもたしかに宇宙のなかなのだらうか。かすかに僕のなかには宇宙に存在するものなら大概ありさうな気がしてくる。だから僕が何年間も眠らないでゐることも宇宙に存在するかすかな出来事のやうな気がする。僕は人間といふものをどのやうに考へてゐるのかそんなことをあんまり考へてゐるうちに僕はたうとう眠れなくなつたやうだ。僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる、息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は……。
 僕は気をはつきりと持ちたい。僕は僕をはつきりとたしかめたい。僕の胃袋に一粒の米粒もなかつたとき、僕の胃袋は透きとほつて、青葉の坂路を歩くひよろひよろの僕が見えてゐた。あのとき僕はあれを人間だとおもつた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に繰返し繰返し云ひきかせた。それは僕の息づかひや涙と同じやうになつてゐた。僕の眼の奥に涙が溜つたとき焼跡は優しくふるへて霧に覆はれた。僕は霧の彼方の空にお前を見たとおもつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。人間の足。驚くべきは人間の足なのだ。廃墟にむかつて、ぞろぞろと人間の足は歩いた。その足は人間を支へて、人間はたえず何かを持運んだ。少しづつ、少しづつ人間は人間の家を建てて行つた。
 人間の足。僕はあのとき傷ついた兵隊を肩に支へて歩いた。兵隊の足はもう一歩も歩けないから捨てて行つてくれと僕に訴へた。疲れはてた朝だつた。橋の上を生存者のリヤカーがいくつも威勢よく通つてゐた。世の中にまだ朝が存在してゐるのを僕は知つた。僕は兵隊をそこに残して歩いて行つた。僕の足。突然頭上に暗黒が滑り墜ちた瞬間、僕の足はよろめきながら、僕を支へてくれた。僕の足。僕の足。僕のこの足。恐しい日々だつた。滅茶苦茶の時だつた。僕の足は火の上を走り廻つた。水際を走りまわつた。悲しい路を歩きつづけた。ひだるい長い路を歩きつづけた。真暗な長いひだるい悲しい夜の路を歩きとほした。生きるために歩きつづけた。生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかつて訊ねてみた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。
 人間の眼。あのとき、細い細い糸のやうに細い眼が僕を見た。まつ黒にまつ黒にふくれ上つた顔に眼は絹糸のやうに細かつた。河原にずらりと並んで…

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