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郷愁の詩人 与謝蕪村
きょうしゅうのしじん よさぶそん
作品ID47566
著者萩原 朔太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「郷愁の詩人 与謝蕪村」 岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年11月16日
初出蕪村の俳句について「生理 1」1933(昭和8)年6月、春の部「生理 2」1933(昭和8)年8月、夏の部「生理 3」1933(昭和8)年11月、秋の部「生理 4」1934(昭和9)年5月、冬の部「生理 5」1935(昭和10)年2月、芭蕉私見(前半部分)「コギト 第四十二号」1935(昭和10)年11月、芭蕉私見(後半部分)「俳句研究 第三巻第一号」1936(昭和11)年1月
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2011-08-16 / 2014-09-16
長さの目安約 80 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 蕪村や芭蕉の俳句に関しては、近頃さかんに多くの研究文献が輩出している。こうした時代において、著者の如く専門の俳人でもなく、専門の研究家でもない一詩人が、この種の著書をあらわすということは、無用の好事的余技の如く思われるが、決してその然らざる必然の理由があるのである。というのは、従来世に現われている蕪村論や芭蕉論は、すべていわゆる俳人の書いたものであり、修辞や考証の解説上で、専門的に入念を極めた絶好の書であるけれども、俳句そのものの本質しているリリックの真精神を意外に忘却しているものが多いのである。特に蕪村の俳句にいたっては、子規以来単なる写生主義ということで定評づけられ、一もその真の詩的精神――俳句のエスプリする哲学原理――を批判されてない。俳壇のいわゆる俳人たちは、彼らの宗匠的主観に偏して、常に俳句を形態上のレトリックでのみ皮相な手法的技巧観で鑑賞するため、句が詩情している本質のポエジイと、その背後にある主観の貫ぬく哲学とを、ややもすれば閑却無視することになるのである。つまり彼らは、俳句が抒情詩であることの本義を忘れて、単にこれを形態上のレトリックでのみ、皮相に解釈しているのである。
 著者は専門の俳人ではない。しかし元来「詩」というものは、和歌も俳句も新体詩も、すべて皆ポエジイの本質において同じであるから、一方の詩人は必ず一方の詩を理解し得べきはずであり、原則的には「専門」ということはないはずである。専門というべきものは、単に修辞の特殊的な練習にのみ存しおり、鑑賞上には存在の区別がないはずである。しかも今日の日本では、僕らのいわゆる詩人(新詩人)が、他の伝統詩の歌人や俳人に比して、比較的に自由な新しい鑑賞眼を所有している。すくなくとも僕らの詩人は、より因襲のない自由な立場で、古典の詩を新しく本質的に鑑賞し得る便宜を持っている。
 著者は昔から蕪村を好み、蕪村の句を愛誦していた。しかるに従来流布している蕪村論は、全く著者と見る所を異にして、一も自分を首肯させるに足るものがない。よって自ら筆を取り、あえて大胆にこの書をあらわし、著者の見たる「新しき蕪村」を紹介しようと思うのである。もとより僕は無学にして文献に暗く、考証等に笑うべき蒙失があるかも知れない。しかし著者の意はその辺の些事になくして、蕪村俳句の本質を伝えれば足りるのである。読者乞う。これを諒してこれを取読せよ。

 附録の「芭蕉私見」は、全く文字通りの一私見にすぎない。蕪村とちがって、芭蕉の研究は一般に進歩しており、その本質の哲学や詩精神やも、既にほぼ遺憾なく所論し尽されてる観がある。著者としても、さらに蛇足を加える余地がないので、単に蕪村との比較を主とし、かつその句に自己の主観的評釈を附した。ここで特に「主観的」と言ったのは、新詩人としての僕の見方が、一般俳壇人のそれに比して、多少新しく…

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