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下町娘
したまちむすめ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「随筆 きもの」 実業之日本社
1939(昭和14)年10月20日
初出「サンデー」1929(昭和4)年10月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-02-17 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 江戸の女を語るには、その階級から語らなければならない。
 武家と町人――それはその時代の何處にもカツキリとされた區別であるが、江戸にはもひとつの別階級がある、職人である。
 下町娘の總稱は、町人、職人を一つにまとめて、日本橋、京橋、芝、神田、下谷、淺草、本所、深川に住んでゐた、下町つ子の娘をさしてさう呼ぶ。だが、その下町娘の中に二種類があるといはなければならない。富裕な町人の娘の階級と、さうでない層の娘。私はあとの方のをこそ下町娘であると思ふ。いま、歌舞伎劇などで、下町娘の代表になつてゐる扮裝は、白子屋お熊や、八百屋お七であるが、あれは丁度その眞中をいつてゐる好みだといへる。
黄八丈に黒繻子の襟、緋鹿の子の半襟、絞りばなしの鹿の子の帶。結綿島田に朱ぬりの差櫛、花簪。
 出來れば、下町生れの娘はみんな、そのおつくりを好んだに違ひない。また、似よつたおつくりもしたかつたであらう。だが、江戸時代でも、明治のはじめでもさうであつたであらうが、あたしの知つてゐる下町の娘はもつと働いたから、あんなゾベラ/\とした姿をしてゐなかつた。
 一體に侠なとりなり――侠とはフラツパーとはいささかちがふ。侠氣をもつ、ハツキリとしてゐる。ものいひも、ものごしも――それが轉じて、おきやんな(お轉婆、もしくはあばずれ)鼻つぱりばかりの腹のないものにもなつたが、由來は、生々した、清新な、瀟洒と清楚をたつとんだ好みである。町奴ごのみである。で、どこやら男性的で、少年の美――若衆だちといつた顏や、眉や、眼のはりや、キビ/\した、溌剌さをふくんで、いはゆる張りのある女であつた。
 では、富裕の町人の娘たちはどうであつたかといへば、お姫さまより顏が美しかつたといへよう。おんなじやうな深窓の育ちではあるが、その人たちのおつくりには、上方づくりの濃艶さがあつた。芝居では、油屋お染とお半の扮裝が代表である。大問屋、大町人は阪地に關係が深いので、店の制度も奧向きの方も、阪地の富豪とさう違つてはゐなかつた。
 私はむしろ、山の手とよばれた武家の家族の中にも、凛とした梅の花の、下町娘と共通のよさを感じる。山の手が野暮になつたのは明治維新に、諸國入亂れの士族さんのグループに占領されてからであらうと思ふ。質素な、白丈長をキリリと島田の根にまいた、紫矢がすりに黒じゆすの帶、べつこうの櫛に銀の平打一枚、小褄をキリリとあげた武家の娘のいさぎよさは實に清艶である。下町娘でなければ、江戸の美をとどめないやうにいふのは半可通ではあるまいか。それと同時に、現今でも、下町にいつたら――もしくは、昔風の下町づくりをしてゐるから、もはん的下町娘だといふのはあやまつてゐる。下町娘は心意氣である。江戸生れの氣質を代表した名なのである、單におつくりそのものではない。
 だから――と、いふ、いま、江戸の下町娘をもとめるのなら、日本中いたる…

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