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下谷練塀小路
したやねりべいこじ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「東京恋慕帖」 ちくま学芸文庫、筑摩書房
2004(平成16)年10月10日
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2016-05-26 / 2016-03-04
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は下谷練塀小路河内山宗俊屋敷に誕生した故であらう、かの市井無頼の遊侠徒たる河内山に対して平常並々ならぬ好意と親愛の情をおぼえないわけには行かない。されば戦前戦中、また戦後の今日も屡々私は青山高徳寺にその墓を掃つてゐる。高徳寺はかの梅窓院の向ふ横即ち青山電話交換局の建物に副つて右折、さらに西へと一、二丁入つた右側の寺である。この寺のやゝ手前左側にはかの鈴木主水(百度と門前案内の石標には刻されてあつた)の菩提所もあつたが、今次の兵火にその石標の方は砕けてしまつたものと見えて已になかつた。もちろん高徳寺とて嘗ての三葉葵の紋どころ燦然と破風づくりの大屋根にかゞやかしてゐた崇高な本堂は最早再び此を仰ぐ可くもないが、門内右側の東京著名講談師たちに拠つて寄進された河内山宗俊の碑とその墓石が全きを得たことはせめてもの倖としなければなるまい。殊に私はこの石碑を打眺めるたびに太だ好感情を禁じ得ないことは典山文慶のやうな世話物の妙手にこの企のあるは当時としても、貞山、馬琴、如燕、若燕、南龍のごとき「天保六花撰」をば未だ嘗て一とくさりだに高座で読んでゐない人々が共にこの建碑に出費してその名を列ねてゐると云ふ美事である。他に松鯉、伯山らの名もあつたかと記憶してゐる。是れ偏に鴎外先生が「渋江抽斎」末章を引用する迄もなく、旧東京市井文明の中に生を享けて来た芸人諸家の、社会上流の軍官貴紳に比して却つてその情誼のほどの濃やかにも美しかつたことを立証して余りあるものであらう。それにつけても同じく「河内山豪胆録」を積年十八番とした先代木村重友や当代の木村友衛ら浪花節社会に何ら故人へ報恩の行事なきは遺憾に耐へないので、私はこのほども旧友玉川勝太郎に酔中力説したことがあつた。彼と当代の友衛とは莫逆の間柄であり、彼自らも亦戦後久々に「河内山」口演の抱負あることをそのとき私は陳述したからである。ところで私が河内山の墓前に佇む毎に、いつも頗る滑稽のやうな気の毒なやうな想ひに駆られないわけには行かないのは、已にその墓石の大半がかの回向院に於る鼠小僧次郎吉のそれのごとく、通行の諸人に拠つて無惨に打砕かれてゐることである。古来鼠小僧の墓石の一片を所有して会場に赴けば、必ずやその日の無尽は当るものとされてゐる。春秋風雨いつの間にやらわが河内山の墓標も亦三角籤三色籤のマスコットと伝説されてしまつたものなのであらう。尤もこの奇習は戦争以前にも行はれてゐて已にその当時この災禍から免かれるため張りめぐらされてゐた金網までがさらに破損され、墓石は大半損傷されてその文字すら読み難くなつてをり、纔に後世再建のものが傍らにさらに建立されてゐたことを記憶してゐる。殊にいよ/\滑稽千万なのは河内山と隣接の見知らぬ人の墳墓までが災難にもめちや/\に打砕かれてゐることで富籤の利得に狂奔した強慾手合は、只管河内山墓と誤つてこの墓をも打…

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