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日本橋あたり
にほんばしあたり |
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作品ID | 47648 |
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著者 | 長谷川 時雨 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「桃」 中央公論社 1939(昭和14)年2月10日 |
初出 | 「オール讀物」1937(昭和12)年10月1日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2009-03-03 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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その時分、白米の價が、一等米圓に七升一合、三等米七升七合、五等米八升七合。お湯錢が大人二錢か一錢五厘といふと、私は、たいした經濟觀念の鋭い小娘であつたやうであるが、お膳の前へ坐ると、頂きますとお辭儀をするし、お終ひになると、御馳走さまといつたり、さうでもないと、默つて一禮して、お膳を下げてもらうといつた、お行儀はよいが、世の中のことなんにも知らない、空々寂々のあんぽんたんであつたのだ。
しかし未曾有の國難、大國支那と戰ひがはじまるかも知れないといふ空氣は、店藏ばかりに圍まれてゐる問屋町の、日本橋區内の、およそ政治には縁の遠い、深窓とまで大家ぶらないでも、世の中のことを明白には知らせて貰へなかつた娘たちにも、なんともいへない大變なことだと思つてゐたのはたしかだ。
「支那つてこんなに大きいんだわね。」
女の學問を極度にきらつて、女學校にやられない小娘たちは、藏の二階の隅から、圓い地球儀を持出して來て、溜息をついた。彼女たちが幼少だつたころの父の机の上には、その地球儀があつたのだ。孔雀の羽根の長いのが筆立に一本さしてもあつた。
私たちが地球儀を見て、今更に支那を大國と思つたばかりではない、大人たちもさう言つてゐた。後できけば、日本に負けたのでメツキが剥げてしまつたのだが、世界中でさう思つてゐたのださうだ。それにしても私たちが聞きかじつてゐる明治以前の文明は、みんな、唐や明を通してきてゐるものだけに、私たちにはわからないから、ただ、ボヤツと驚いた。
でも、どうも、私の記憶ちがひでなければ負けるつていふ氣はしなかつたやうだ。負けてたまるものかつていふ氣概は持つてゐた。敵國人だからといつて、急に憎らしいといふ氣もしなかつた。
なにしろ、當時、知識人の間には、社交界の人たちや、先見の明ある人たちが、派手と地味に歐風を學んでゐたが、急風潮だつた歐風の、鹿鳴館時代の反動もあつて、漢詩をやつたり、煎茶が流行つたりして、道具類も支那式のものが客間に多く竝べられてゐるし、支那人の物賣りが何處の家へもはいつて來てゐた。
支那人の行商人は、南京玉から、小間物、指輪、反物まで擔いできて、
「女中さん、これ安いよ。」
なんかと安物を賣りつけるのから、横濱の林といふ大きな呉服やは、立派なものを置いてゆくのだつた。
私の七ツ八ツから十歳ぐらゐまでは、南京繻子を縞繻子の帶にしてゐた。おとなも締めたのかも知れないが、私はわたしのことばかり覺えてゐる。横濱生れの朱弦舍濱子も、私もさうだつたと言つてゐた。おとなは今のやうに丸帶ははやらない、丸帶はよつぽど大よそゆき――つまり儀式ばつた時にばかり用ふるので、片側帶があたりまへだつたから、腹合せの片側の上等品は、唐繻子だつた。
私はいとけない時、芝の神明樣の祭禮の歸途に、京橋の松田といふ料理店で、支那人の人浚に目をつけられたとかで、祖母…