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初かつお
はつかつお
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出「三田新聞」1935(昭和10)年5月31日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-01-31 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 鰹といふと鎌倉で漁れて、江戸で食べるといふふうになつて、賣るも買ふも、勇み肌の代表のやうになつてゐるが、鰹は東南の海邊では、どこでも隨分古くから食用になつてゐる上に、鰹節の製造されたのも古いと見えて、社の屋根の鰹木は、鰹節をかたどつたものだと、「舍屋の上に堅魚を」と古事記にあれば、水の江の浦島の子をよめる萬葉の長歌には
春の日の霞める時に住吉の、岸に出でゐて釣船の、とをらふ見れば古の事ぞ思ほゆ、水の江の浦島の兒が堅魚釣り、鯛釣りほこり七日まで――
 と、魚の王鯛と同格に、といふとをかしいが、共に荒魚であり、釣上げて見る目も立派なので、食べるのも好まれたことと思ふ。だが鰹は足が早く、鯛ほどもたないので山國が首都の時代には貴人の口にはいらなかつたので、江戸が都會になつてから、やつと生きたものと見える。大阪は大都市で、早く難波の宮もあつたが、鯛が本場だから幅をきかせ――但し閑がなくて大阪の鰹のことを探さなかつたのではあるが――た。
目に青葉山ほととぎす初松魚
 これは土佐でも住吉でも、自由にはめられる、五月日本のいさぎよさだが、鎌倉といふところに鰹の意義がある。鰹は勝男に轉じ、釣上げた姿もピンと張つてゐる強い魚で、牛の角でなくては釣れないといふし、大擧して寄せてくるといふところなど、勝夫武士とこぢつけないでも、その味と堅實さが、禪に徹し、法華經にひたぶるだつた鎌倉武士氣質に似てゐる。
 だが、蜀山人の狂歌の
鎌倉の海より出し初鰹、みな武藏野のはらにこそ入れ
 となぜなつたのであらう?
 思ふに鎌倉武士のあらましは關東武士であつた。江戸の氣風は徳川權現樣三河御譜代の持參だとばかりは言へない。武藏特有の肝つ玉のあつたことと、土地に着すると、土の風にも化することは論らへない。江戸開府以來、諸國人が多く集まつたが、これらが尋常なキモツタマでないこと、その人たちのつくつた市井は、デモクラチツクなものであり、むさし野の空つ風は、それらの人を吹き晒しあげた。それが江戸ツ子であり、代表的勇みとなつたので、勇みは、いきや、すゐなのとは異ふ。勇ましいといふ語の轉であり略ではなからうか。

 江戸人のなりたちは、士農工商のうち農だけが缺けてゐる。農の出の人も、農業では住へなかつた。士、工、商の三階級で、士と工とが江戸の氣風をつくつたものだといへる。知識階級の士は節度正しく、一死もつて奉公を念としてゐた。工は職場を命の捨どころ、武士の戰場同樣と心得てゐた。この二者が、明日の命をはからず、一念職に殉じようと心がけた。武士が食祿の多少でなく、心にはぢぬ生きかたをしようとし、美食せず、美衣せぬこと、文武を磨くことをもととし、帶刀を心の鏡として、錆ぬことを念願にした。工人(職人)は職場の印半※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、11-2]の折目だつたのを著、晒しの下帶のいつも雪白なのを締め、女房…

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