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むぐらの吐息
むぐらのといき
作品ID47665
著者長谷川 時雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出「女人藝術 昭和四年二月號」1929(昭和4)年2月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-01-31 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 十二月廿五日夜、東京日日新聞主催の「大東京座談會」の席上で、復興の途上にある大東京は、最初の豫算三十億の時から十億に削られた時まで、一千萬圓の國立劇場建築費が保存されてあつたが、終に最後の七億になつて消滅してしまつたといふことを、復興局長官の堀切善次郎氏によつて語られた。
 讀もの中心の座談會では、もとより長講を誰しもが愼しんで避けてゐる。と共にあまり專門的な質問で時間を逸し、面白くない記事をよぎなくする事も失禮である。で、ぐつと安く――三十錢位で見せてもらはなければ、國立劇場が出來ても仕樣がない、とあたしは言つた。堀切氏も同感だといはれ、尾佐竹猛氏は、一體國立劇場といふのは無代で見せるものではないかと言はれた。
 國立劇場といふものが無代のものかどうかを知らないあたしは、各國の國立劇場がどういふ組織のものか――寡聞なあたしはこんな時小山内氏に聞くのだが、悲しくも恰度其日その夜、本紙十月號記載上田文子氏の「晩春騷夜」上演記念の會で發病逝去されてしまつた――無代ならば大變結構なことと思つた。だが、さて、その無代といふことについて考へさせられた。
 假に無代として、どういふ觀客が無代でその劇場へ招じられるか? お上のお仕事である――其實は市民の懷から出てゐるお金であるけれど――服裝は何々、資格はどうといふことになると、十圓の入場料でも五圓でも出せる人が、傲然とただで澄ましかへつてはいつてゆくやうになる。そのほかには作家だとか、俳優だとか、劇場關係者の家族が、何か素晴らしい特權でももつた人間のやうな顏をしてのさばりかへる。と、いふのは、あたしは何時も劇場にいつて見て不愉快なのは、觀劇費の幾割かを觀客から貰つて生活してゐる人間が、ぬつとした顏をしてゐたり、平等の藝術愛好者でなければならないのに、いささかの座席の料金の差がつくらせる大面な上等席のブルジヨア見物の顏である。それ故、折角の無代であらうとも、一千萬圓も建築費にかけた其立派な劇場は、國賓を招く場合があるとか、なんとかかんとか名をつけて、いはゆる庶民はいつも三階、もしくは四階五階へ押上げられて、一等席は貴女紳士と名づけられるものでなくては許せないとなるとなんのための無代ぞやと言ひたくなる。
 そこで、そんな、削られて消えてしまつた案などにコダはつてゐないで、あたしはいつもあたしのユートピアだと笑はれる、あたしの案の大劇場論をここですこしばかりいひたい。ばかばかしいと思ふ利口者は讀まないでもよいし、理想を實現してくれたいといふ人があれば三拜九拜する。

 食べられない人が多くあるのに、夢のやうな大劇場論など何が必要だと、女人藝術のお友達には叱られるかも知れないが、あたしは脚本作家である故か、劇場の方のことが妙に頭を支配する。
 そこで、あたしはずつと前から大小二ツの劇場がほしいと思つてゐる。一ツは最も小さい、會…

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