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能舞台の解説
のうぶたいのかいせつ
作品ID47718
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 21」 中央公論社
1996(平成8)年11月10日
初出「梅若 第七巻第二号」1939(昭和14)年2月
入力者門田裕志
校正者しだひろし
公開 / 更新2011-03-30 / 2016-04-14
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

此会の此役は久しく、先輩山崎楽堂さんが続けられてゐましたが、今度は私が代つて申すことになりました。謂はゞ翁の替りに、風流が出て来た様なものです。とは申せ、私にはお能の解説などゝ謂つた処で、全くの門外漢でございます。約束の多い舞台について、完全な解説などは出来さうもありません。唯、何処か一点づゝでも、皆さんの御参考になる処があれば、それで結構だと思うて出た次第です。
偖、先程皆様も御覧になりました「小袖曾我」梅若さんの御兄弟で、ちようど程よい年輩で、景英さんは如何にも思慮深い十郎そのものであり、安弘さんは、又元気な而もいぢらしい処のある能の五郎らしくて、感じ深く拝見しました。能に於ける曾我物は後の語の世話物とでも申しませうか、さうした意味のものゝ様です。なる程かうして観てますと、歌舞妓などゝ違つて却つて、今様と申しますか、近代的な感じが致すのも、不思議なもので御座います。
私の話は、当節のお能の上を語るのではなく、ずつと古く、譬へば梅若に関したことで申しましても、丹波や、或は伏見等で行はれてゐた時代に戻つてお話したいと存じます。そして其を話の本筋、お能の舞台にかけて話を進めて行くやうな事にしたいと思ひます。御覧の通り、最初からこんなに立派なお能の舞台が出来てゐたとは、誰しもお思ひにはなりますまいが、――尤、この会館の舞台は、仮設の物で、話の対象とするには完全なものではありませんが――譬へば此「橋掛」と言ふ長い廊下の様な処も、長さは実は色々だつたので、五間、七間乃至十一間と言つた長いのもありました。又、大概はこの様に本舞台の横についてゐますが、これが後についてゐるのもありました。現に京都の片山家の舞台にそれを見る事が出来ました。勿論、「鏡板の松」などもありやうはなかつたのです。大体、お能と言ふものは、どこからでも見られる様に、見物は舞台のぐるりの何処にでも控へてゐられるやうに出来てゐます。是は、お能と言ふものが、多くの見物人を本位としてゐなかつた事を示すものなのです。只一人の貴人、或は一家の主人と言つたその時の主座の人にのみ観せればよかつたのです。さうした相伴に見るものは、自由に見ることが出来る。勝手に芸をやつてゐるから見たい者は勝手にどこからでも御覧、と言つた自由な観客席をこさへて居たのです。その一つの例に、江戸柳営の町入能と言ふのがあります。あれがさうで、将軍の上覧の際、特に町人共にもお能拝見差許すと言つた意味なのです。
偖、前にも申しました能舞台は、その他の点に於ても、元来かうした完全な形式を備へてゐたものではありませんが、それでは、古くはどうであつたか、お話して見ませう。始めは多く、庭でやつたものだと思はれます。所謂、「庭の能」で、莚などの上でしたものゝやうです。だから勢ひ、勿論平舞台です。神社仏閣その他のぱとろんの庭で行つたものでせう。それがやがて舞台…

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