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村で見た黒川能
むらでみたくろかわのう
作品ID47725
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 21」 中央公論社
1996(平成8)年11月10日
初出「能楽画報 第三十一巻第十一号」1936(昭和11)年11月
入力者門田裕志
校正者しだひろし
公開 / 更新2011-03-30 / 2016-04-14
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

黒川能東京公演に先だつこと二个月、私は偶然あの村(黒川村)に行き合はせて能及び狂言を見ることが出来た。(本誌前号誌上で話した通りである。)そこで上京公演の日も近いといふことを聞いた時、私は、これが果して東京の目の肥えた、しかも高ぶつた能の常連に私共の得たやうな深い感銘や同感を持たせられるかどうかと、黒川村の舞台、能役者その他の敬虔な気分に刺戟された共感から危んだ。しかし東京公演に対する能楽批評家の批評を聞いて、すべてが杞憂に過ぎなかつたことを知つて、私は黒川能のために大いに喜んだ。たゞし能楽としてだけ見るのではない我々、つまり日本芸能全体の上に能楽を見、かつ、他の芸能と同じやうに扱つてゐる我々にとつては、多少不満足な批評も耳にしないではなかつた。
それは第一に狂言が不評判だつたことで、私共はどちらかといへば、上座下座両座の大夫その他が努力して伝統を保つてゐる能それ自体よりも、実は狂言の方を高く評価すべきだと思つてゐたからである。これは黒川能の人々にとつては名誉でないかも知れないが、地方の芸能或は演劇的傾向のあるものとしては当然であり、意味があるのである。黒川能が本道に生きて、少くとも現代に近いものとして、役者にも村の人にも庄内人士にも同感を起し、なほ多少でも伸びて行くのは狂言の方にある筈だと思つた。ところが東京では、狂言に出てくる方言、或は方言的発音に好感を持たなかつたやうに聞いてゐる。これは狂言の性質上、たしかに東京の能楽愛好家の方が間違つてゐると思ふ。
私の印象――少くとも村の生活の全面にわたつて観察するには一週間位滞在する必要があるのだが、ほんの半日ばかりゐた印象から言へば、流石に両座の組織によつて村人の心が整頓されてゐるだけあつて、表情にも挙動にも他村に見られない、ある閑雅とはいへないまでもある静けさが観取された。大体、私共芸能の行はれる地方を見て歩いた者の経験からすれば、芸能の行はれてゐる村は却つて質が悪いといつた感じを持たされることが多い。処が黒川村は、私の瞥見では非常によい印象を受けた。これは今の社会において能楽の持たれてゐる感じが、村人にも反映してゐるのだ、といつた方が適当だと思ふ。
東京公演の成績については、私は他の能楽愛好家と変つた考へを持つてゐる。それはこの黒川能が、古代を現状に保持すると共に一地方的に変化を自由に加へてゐるらしい所にある。能評家の話も多くこの点を中心として好意を示されたらしいが、「よく訣る」といふこと、「無暗に囚はれた高雅といふものに偏してゐない」といふこと、「地方風でありながら多少近代味が這入つてきてゐる」といふ点にある。明治時代に一度能楽が衰へた時期から、その復興した後も引き続いて行はれてゐた泉お作、同祐三郎等の行つた照葉狂言一類の、能楽と三味線音楽及び京舞等を調和したもの――それは能楽からいへば非常な堕落といへる…

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