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両国橋の欄干
りょうごくばしのらんかん
作品ID47737
著者木村 荘八
文字遣い新字旧仮名
底本 「東京の風俗」 冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日
入力者門田裕志
校正者伊藤時也
公開 / 更新2009-01-12 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#挿絵]
 柳橋の明治二十年以前木橋であつた頃は、その欄干は上図のやうな木組であつたが、これは一曜斎国輝の錦絵「両ごくやなぎばし」の図や、明治二十二年発行の「日本名所図会東京の部」(大阪府平民上田維暁編)などに写されてゐるので(第一図)わかる。明治初年彰義隊の時に油を灌いで焼かれたといふのもこの構造の柳橋であつたらう。欄干の木組が十文字のぶつちがひになつた構造は、古くは日本橋も黒塗りの木組で絵図にさう写されてゐるし、大川筋の永代橋、大橋、両国橋など皆、同じ形式で出来てゐる。目貫きの大通り筋には新橋や京橋などこの形式でないものもあつたやうだが、大体木の橋といへば、欄干の定石はこのぶつちがひだつた。――そして此の構造が幕末以前には無く、構造の基くところは外来から来たといふことは、前節の文章の中で述べた。――それが支柱の十文字は同じでも、橋材が鉄に変つて新装した姿が、第二図(東京名所案内所載)で、われわれは初めからずつとこれに見参してゐる。
[#挿絵]
柳橋の景(第一図)

[#挿絵]
柳橋の景(第二図)

 僕はこの金物の柳橋の欄干に直接明治の味を感じるのだが、これは工芸部門の専門的な穿鑿から見ても、われわれ一個の独断なりカンジなりには堕ちないやうである。
 柳橋が鉄橋になつてもなお両国橋は当分(明治三十七年まで)木橋のまゝでゐたが、明治二十七年版の「東京名所案内」(原田真一編)に、「両国橋は新柳町より本所元町に架す。長さ九十六間、構造すこぶる壮大なり。明治初年の築造に係る。橋下は即ち隅田川の下流浅草川なり。橋の西詰広濶の地を広小路といふ。夏月避暑に宜しきを以つて橋上に立つもの橋下に遊船を泛べるものすこぶる多く、殊に川開きと称して川中に烟火を揚るときなどの群衆雑沓は実に驚くばかりなり。」
 夏は全く涼しいものであつた。川だから涼しいのは当り前といへばそれつきりのものゝ、川筋といつても、浅草橋や左衛門橋などは格別涼しい記憶が無い。柳橋が同じ神田川筋では矢張り涼しいところだつた。「東京名所案内」にもこういつてある。
「柳橋は両国を距る北数十穹神田川の咽喉に架す。此地また両国橋と同じく盛夏の避暑晩冬の賞雪皆宜しく都下第一の称あり。故を以つて酒楼茶店簷を並べ綺羅叢をなす。」
 川風にも文字通りそれが涼しい川風と、格別でもないただの風とがあるものだらう。恐らくは地形からもさうなつたゞらうが、大川筋は川の流れが海から見ると大体北上して来て、両国橋のところから心持東へと進路を転じてゐる。それで水勢が上げるにも引くにもぶつかるから、本所横網町の川岸一帯には水勢をよける乱杭が一杯に打つてあつたものだ。百本杭といつて、われわれ子供にはこれは願つても無い陸釣りや蟹つりのスタヂアムだつた。
 そんなわけで川筋が大うねりを見せる一つの急所に当るから、両国橋やこれに伴ふ柳橋の地形は水を渡…

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