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漱石氏と私
そうせきしとわたし
作品ID47741
著者高浜 虚子
文字遣い新字新仮名
底本 「回想 子規・漱石」 岩波文庫、岩波書店
2002(平成14)年8月20日
初出「ホトトギス」1917(大正6)年2~6月号、9月号
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2010-01-07 / 2014-09-21
長さの目安約 135 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

  序

 漱石氏と私との交遊は疎きがごとくして親しく、親しきが如くして疎きものありたり。その辺を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料としてただ追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる当時の事情は、ほぼ此の書によりて想察し得可し。
  大正七年正月七日
ほととぎす発行所にて
高浜虚子
[#改ページ]

   漱石氏と私

    一

 今私は自分の座右に漱石氏の数十本の手紙を置いて居る。近年はあまり人の手紙は保存することをしないけれども、十年前頃までは先輩の手紙の大方保存しておいた。それは一纏めになって古い行李の中に納められてある。今度漱石氏が亡くなったのに就いて家人の手によって選り出されたものが即ち座右にあるところの数十通の手紙である。まだ年月の順序でそれを排列することもしないでいるのであるが、ちょっと手にとってみたところでは大方漱石氏が「猫」を書くようになってから以来一両年間の手紙で、それ以前の手紙は極めて少いようである。そうして漱石氏が朝日新聞に入社してその紙上以外に筆を執らぬようになってから後はまた著しくその数を減じている。
 私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子を被っている姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山鮓とよばれているところの五目鮓が拵えられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったろうか。それはその後しばしば氏に会しながらも終に尋ねてみる機会がなかった。やはり休みを利用しこの地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったろうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとっていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった。それから両君はどういうようにして、どういう風に別れたか、それも全く記憶にない。ただその時私は一本の傘を居士の家に忘れて帰って来たことと、その次ぎ居士を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあ…

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