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市村羽左衛門論
いちむらうざえもんろん
作品ID47786
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 22」 中央公論社
1996(平成8)年12月10日
初出「苦楽 第二巻第二、三号」1947(昭和22)年2、3月
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2018-05-06 / 2018-04-26
長さの目安約 65 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

市村羽左衛門の芸の質についての研究が、此頃やつと初まつたやうである。何にしても、此は嬉しいことだ。歌舞妓芝居のある一つの傾向は、これで追求せられて、その意義がわかつて来るだらうと思ふ。
なぜ、羽左衛門が、権八や菊之助乃至は久我之助・桜丸の類の役柄に扮し勝ちであつたか。又、直次郎や、新三や、さうかと思ふと梅吉(加賀鳶)・佐七の、小善小悪にあがく市井の人々になつたのか。もつと言へば、実盛・盛綱・景時の類型から飛躍して、板倉内膳・桃井若狭・富樫などを以て、その役どころとしたか。此等、歌舞妓芝居の約束を知つたものには、ほんの何でもないことが、恐らく新しい問題となつて来るだらうと思ふ。
明治廿六年三月、歌舞伎座では福地桜痴の「東鑑拝賀巻」が上演せられてゐた。此時、公暁を勤めて居た先代尾上菊五郎は、実弟坂東家橘の、思ひがけない死に目に逢はねばならなかつた。家橘の重忠の、おなじ月の市村座興行に、「兜軍記」の彦三郎風の演出に、所謂江戸の愛優「坂彦」を失うた後の、寂しい東京市民の心をやつと償はれたやうな気がしてゐた最中であつた。
此時、本文の対象にしてゐる市村羽左衛門は、まだ市村座の若太夫名竹松で一座に居た。「目黒新富士」と言ふ近藤重蔵を書いた新作狂言に、誉当の倅民蔵、と言ふ実在の富蔵をもぢつた役名で出て居たものである。
この興行半に家橘は病気休みをして、其まゝ起たなくなつた。危篤に陥つた時、兄は公暁で、歌舞伎座の舞台に立つて居た。臨終の床に駈けつけた兄の、死者に対してくどき歎いた詞と、驚きにをろ/\して居た甥を膝もとにひきつけて言つた詞と、二つは今もどうかすると、話の種にしてゐる年よりがある位である。弟思ひの美談として伝つてゐるのであるが、此は或は、兄菊五郎の深い悔いから出たことなのかも知れぬ。五十五年たつた今から、静かに思へば、世のはらからの、せむすべもない思ひが、目の前に浮んで来る様だ。私どもゝ、唯の弟思ひ、兄思ひの兄弟なかの悲しい幸福の物語として考へて居た。
その後私に教へてくれた多くの先輩の話を綜合すると、この兄は可なり弟には激しかつた。その証拠には、骨肉の間でありながら、互に助勢しあつて、おなじ興行に一座することが稀だつたと言ふ。併し此証拠は必しも、真実ではなかつた。兄弟は晩年繁しげと、一座して顔合せはして居たのであつた。此は、興行年表を作つて見た上で、私は言ふのである。だが、其が兄弟仲の円く行つて居たことにはならぬ。寧、さう言ふいさかひ、仲違ひの続いた間に、突如として弟の死に遭うた兄の狼狽・慚愧の情は、可なりやるせないものであつたらうと思はれる。素人の間では、少し表現の勝つた言ひ方だと思はれる菊五郎の弟甥に対しての詞も、役者が聴きてを意識し乍ら、開き直つて言ふとすれば、さうした過度の感激が表白せられるのも、無理はないと思ふ。義理人情を弁へ、達意に物を言ふ菊五郎で…

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