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山日記その一
やまにっきそのいち
作品ID47879
著者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第四卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年8月30日
初出「文學界 第五巻第十号」1938(昭和13)年10月号
入力者tatsuki
校正者染川隆俊
公開 / 更新2013-09-22 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 九月三日
 ゆうべ二時頃、杉皮ばかりの天井裏で、何かごそごそと物音がするので、思はず目を覺ました。ちやうど僕の頭の眞上のへん。鼠だらう位に思つて、やがてもう音がしなくなつたので、又すぐ寢てしまつた。
 朝、起きぬけにけふこそ一つ仕事をしてやらうと思つて、霧の中をすこし散歩をして歸つてくると、僕を迎へる女房たちの樣子がちよつとばかり變なので、どうかしたのかと訊いてもなかなか白状しない。何か僕のいやがる事があつたらしい。
 が、とうとう白状した――けさ、僕が散歩に出た後で僕の部屋の雨戸をあけて見ると、庇から變な白いものがぶらさがつてゐる。よく見ると、二尺ばかりの蛇の拔け殼。――どうしてこんなものがこんなところにあるのだらうと不審なまま、僕が蛇の大嫌ひなのはみんな知つてゐるので、留守の間に片づけて置いて、僕には默つてゐようと申し合つたのださうだ。
 僕はそれを訊いた途端に、もうすつかり忘れてゐた、ゆうべ天井裏でごそごそやつてゐた物音を思ひ出した。どうも鼠にしてはすこし大人しすぎると思つたが、ことによるとその蛇の奴がそのとき丁度僕の頭上で脱皮したのかも知れない。
 僕達のコッテエヂのまはりは、何しろ谷の上だから、少しは蛇も出るだらうと覺悟はしてゐたが、夏ぢゆう一ぺんも見かけなかつたので好い工合だと思つてゐたら、夜なかに屋根裏へ這ひ込んでゐようとは本當に知らぬが佛。……
 もうその蛇はとつくに出ていつたらうが、そこの窓枠に手をついて背伸びをして見ると、まだ庇の穴から氣味の惡い拔け殼の切れつぱしがひらひらとしてゐる。さつきいそいで引つ張つたら途中で切れてしまつた――それだけで二尺餘りも。あつたのださうだから、よほど大きな奴だつたのだらう。まだ殘つてゐるのは首の方の由。――
 蛇の拔け殼を見るのは縁起が好いのださうだが、どうもそいつがぶらぶら下がつてゐる窓の下で、勉強をするのは閉口だから、勉強にいるやうなものはみんな廣間に移して、しばらくその一隅を假りの書齋にしつらへた。そんな事でうかうかしてゐるうちに、午前中、せつかく仕事をやらうと思つてゐた氣分がめちやくちやになつてしまつた。
 午後、阿比留信君來訪。霧のなかを歩いて來たので、だいぶ上衣がしとつてゐるやうだし、家の中もけさから何んとなく濕つぽいので、煖爐に火を焚いた。早速阿比留君をつかまへて、けさの出來事を話して聞かせる。が、君はさう驚いたやうな顏をして聞いてもゐない。こんな山住ひではごく有りきたりの出來事のやうにして靜かな樣子で聞いてゐる。
 それから阿比留君が話を引きとつたが、なんでも君達が數年前借りてゐたコッテエヂには、屋根裏に小さな蝙蝠が棲まつてゐたこともあつたさうだ。夕方、君の妹が鏡に向つて髮をいぢつてゐたら、なんだかその鏡のなかを黒い影がすうすうと横切るので、ふり向いて見たら、それがその蝙蝠だつたと云ふ……

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