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詩人も計算する
しじんもけいさんする
作品ID47913
著者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日
初出詩的精神「帝国大学新聞 第二百九十六号」1929(昭和4)年5月13日、芸術のための芸術について「新潮 第二十七巻第二号」1930(昭和5)年2月号、超現実主義「文学 第三号」第一書房、1929(昭和4)年12月1日、すこし独断的に――超現実主義は疑問だ「帝国大学新聞 第三百三十七号」1930(昭和5)年4月28日、小説の危機「時事新報」1930(昭和5)年5月20日
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2013-02-14 / 2014-09-16
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「吾人の賞美する建築は、その建築家が目的によく副ふやうな手段を用ひて、その柱が、エレクションの麗はしき人像柱の如く、上にかかる重みを苦もなく輕々と支へてゐるやうな建築である。」
アンリ・ポアンカレ

 さて、いま僕らの努力してゐるのは、詩を文學から引離すことである。文學はもはや手品師がクリストに似てるやうにしか詩に似てゐない。多くの人々は文學によつて手品によつての如くにだまされる。それが人々には面白いのである。しかしそれはもはや僕らをだまし得ない。だから僕にはすこしも興味がない。それに反して、詩は、その宗教的精神に酷似した詩的精神によつてクリストの行爲のやうに僕らを感動させる。今日の詩人の價値は、彼がクリストの如き神聖の無氣力と信仰とを持つてゐるか否かによつて決定されるといつてよい。
 詩的精神とは如何なるものであるか。それは僕らに電流のやうにしか作用しないものである。(詩の非電導體の何と多いことか。)それが僕らに作用するや否や、僕らの感じだすものは、よき詩人も、よき科學者も、よき宗教家も、實にそれらの精神がその根本において一致してゐることである。この一致はどこからくるか。
 科學者は何よりもまづ計算をする。そのやうに詩人も計算する。たとへば、一つの建築が僕らを感動させるのは、その外貌――それがいかに奇拔であつても――によつてではない。しかしその「重々しい輕さ」の感じ、それを組立てる骨格、その計算等によつてである。一つの奇蹟が、一つの詩が、僕らを感動させるのも、それとすこしも異らないことを解しなければならぬ。
 詩人は夢なんか見てゐてはいけないのだ。
(初出時の表題は「詩的精神」。)

          [#挿絵]

 二つの計算法。その一つはスタンダアルの「赤と黒」のそれであり、他はドストエフスキイの「白痴」のそれである。
「赤と黒」の場合、僕がジュリアン・ソレルによつて感動されるのは、それはスタンダアル自身の意向によるものだ。しかし「白痴」の場合は、それと異つて、僕を感動させるものは、ドストエフスキイ自身の意向であるか誰の意向であるかはつきり分らない。それは何か超人間的な力によるもののごとくである。ジィドの所謂「作品における神の部分」が後者にはより多くあるらしい。
 スタンダアルは自分の計算の結果に相當の見通しを以つて「煙草をすぱすぱやりながら」仕事をしたかのように思はれる。ところが、ドストエフスキイは全然その計算がどんな結果になるか分らずに「しどろもどろになつて」仕事をしたごとくである。しかし二人とも遂に同じ合計に達してゐるのである。
 もし僕がそれらの精神の中のどれか一つを選ばねばならぬとしたら、僕はむしろスタンダアルの方を選ぶ。
 勿論、詩人の計算法の神祕は誰にも分るものではない。僕は以上のことを唯それらの外見から言ふよりほかはなかつた。だから僕…

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