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小説のことなど
しょうせつのことなど
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日
初出「新潮 第三十一巻第七号」1934(昭和9)年7月号
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2013-03-17 / 2014-09-16
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 この頃私は逢ふ人ごとにモオリアックの小説論の話をしてゐる位だ。
 私はつい最近、彼の小説論を二册ばかりと、「癩者への接吻」といふ小説を一つ、立て續けに讀んだところなのだ。彼の小説論は、勿論本格小説論だが、讀んですこぶる啓發されるところがあつたし、小説の方は彼としてはかなり初期のものらしいが大へん氣に入つた。これこそこの頃私の一番讀みたいと思つてゐた小説であるやうな氣がした。この作以來、モオリアックはいい小説をだいぶ書いてゐるやうであるから、この夏でも出來るだけ多く讀んで見たいと思つてゐる。
 さて、モオリアックの小説論だが、早速その一節を引用して見る。
「十八歳の少年は、彼が人生について知つてゐるもの、即ち彼自身の欲望、彼自身の幻滅をもつてしか本を書くことは出來ない。彼は自分でその殼を破つたばかりの卵を描くことしか出來ない。概して、彼は他人を觀察しようといふ考へが起るにはあまりに彼自身に夢中になりすぎてゐる。われわれの中に小説家が形態を具へ出すのは、われわれがわれわれ自身の心情からわれわれを引き離し得るやうになつてからである。」「自分自身の物語を語る作家」がかうも簡單に子供扱ひにされてゐるのは少々不滿だとは云へ、これは今日の私達には、適切な忠告を與へてくれた言葉である。――以上の一節は、去年あたり書かれたらしい「作家と作中人物」といふエッセイの方から引用したが、その同じエッセイのずつと先きの方で、モオリアックは又、かうも言つてゐる。
「最も客觀的な小説の背後にも、……小説家自身の活きた悲劇は隱されてゐる。……しかし、その私的な悲劇がすこしも外側に漏れて居なければ居ないほど、天才の成功はあるのだ。「ボヴァリイ夫人は、私自身だ」といふフロオベルの有名な言葉は、頗る理解し易い。――が、その言葉はもつと時間をかけて考へて見る必要がある。それほど此の本を書いた作家がその中に自分を入れまぜてゐないやうに見えるからだ。「ボヴァリイ夫人」が傑作であるのは、即ちその作品が、その作家から切り離された全體として、世界として、一塊となり、位置してゐるからである。われわれの作品が不完全であればあるほど、その割れ目からその不幸な作家の苦しめる魂が漏れるのである。」
「が、ある天才をもつてしても作家と作品とのさういふ結合を得なかつた、出來損ひの作品はまだしも良い。魂のない作家によつて手ぎはよく、外側から構成された作品なんぞよりは。……」
 モオリアックを俟つまでもなく、作家にとつて自分を棄てることがいかに大切であるかと云ふ事は、今日、私たちの最も關心をもつべき問題となりつつある。――さういふ今日、私はいままで好い氣になつて自分自身の物語、或ひはそれに似たものをばかり書いてきた私自身がすこし腹立しいくらゐである。さうして最初から、さほど苦勞せずに、他人を觀察して得たものだけで物語を書くこ…

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