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ドゥイノ悲歌
ドゥイノひか
著者
翻訳者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日
初出「四季 再刊号」1946(昭和21)年8月5日刊行
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2013-02-20 / 2014-09-16
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

次ぎの手紙の斷片は、リルケの作品をポオランド語に飜譯したヴィトルト・フォン・フレヴィチのさまざまな質疑に答へて詩人が書き與へた返事のうちの「ドゥイノ悲歌」に關する部分である。この手紙には日付がないが、消印によつて一九二五年十一月十三日のものであることが知られる。

          [#挿絵]

 ……ここでは、親愛なる友よ、ごく僅かなことしか私自身にも言へません。
 詩そのものを手になさつて、御自分でいろいろな解釋を試みてごらんなさい。が、さうするには? 何處から始めたらいいか? それに、この「悲歌」に正確な説明を與へうるのは果して私でありませうか? この詩は私を無限に凌駕致してをります。私はこの詩をば先づ「時祷書」のなかで既に提出せられ、次いで「新詩集」二卷において――なかば遊戲として、なかば試みとして――世界像を採用し、更にまた「マルテ」のなかで、葛藤しあつたまま一しよに、人生に引きもどされ、そしてそのやうな底も知れない空に浮いた人生は不可能であるといふ證明にのみ殆んど充てられたところの、根本命題の新しい形成だと思つてゐるのです。「悲歌」においては、同じ與件から出發しながら、人生は再び可能になります。すなはち人生はここにおいては決定的肯定を受取るのです。(あの若いマルテはその「長い稽古」(des longues[#挿絵]tudes)の正しい困難な道を歩いていつたにも拘らず、遂にそこまでは到達することができなかつたのでした。)「悲歌」においては、生の肯定と死の肯定とが一つのものとなつて表示されてをります、その一方のもののみを他方のものなしに認めることは、我々がいま此處でそれを明らかにするやうに、すべての無限なるものを遂に閉め出してしまふやうな限界を設けることであります。死は、我々の方を向いてをらず、またそれを我々が照らしてをらぬ生の一面であります。かかる二つの區切られてゐない領域のなかに住まつてゐて、その兩方のものから限りなく養はれてゐる我々の實存を、我々はもつともはつきりと認識するやうに努力しなければなりません。……人生の本當の姿はその二つの領域に相亙つてをり、又、もつとも大きく循環する血はその兩方を流れてゐるのです。そこには、こちら側もなければ、あちら側もない。ただ、その中に「天使たち」――我々を凌駕するものたち――の住まつてゐる、大きな統一があるばかりなのです。そして今や、かうしてそのより大きな半分をつけ加へられ、ここにはじめて完全無缺なものとなつた此の世において、愛の問題が前面に出てまゐるのです。
 私は、「悲歌」を理解するために、「オルフォイスへ捧ぐるソネット」――それは少くとも同じほどずしりとした重みがあり、同じ要素で充たされてゐます――があなたにとつて大きな補助となつてゐないといふ事がいかにも不審に思はれます。「悲歌」は一九一二年(ドゥイ…

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