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「マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記」から
「マルテ・ロオリッツ・ブリッゲのしゅき」から
著者
翻訳者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日
初出マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記「四季」1934(昭和9)年10月号、二つの断片(「マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記」から)「四季」1934(昭和9)年12月号、「マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記」から「四季」1934(昭和9)年12月号、マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記(Ⅲ)「四季」1935(昭和10)年1月号
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2013-02-20 / 2014-09-16
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

九月十一日、トゥリエ街にて
 一體、此處へは人々は生きるためにやつて來るのだらうか? 寧ろ、此處は死場所なのだと思つた方がよくはないのか知らん? 私はいま其處から追ひ出されてきた。私はいくつも病院を見た。私は一人の男がよろめき、卒倒するのを見た。人々は彼のまはりに集り、私にその餘のものを見ないやうにさせてくれた。私は姙娠してゐる女を見た。彼女は高い、暑い煉瓦塀にそうて重苦しさうに歩いてゐた。まだそれが其處にあるかどうかを確めるためのやうに、ときどきその煉瓦塀を手搜りしながら。さう、それはまだ其處にある。その向うにあるのは何かしら? 私は私の地圖の上を搜す。産科病院だ。さうか、そこでお産をしようと云ふのだな。うまく行くといいが……。もうすこし先きの、聖ジャック街には、圓屋根のある大きな建物がある。地圖で見ると、Val de Gr[#挿絵]ce(衞戍病院)。私は特にそんな名前なんか知る必要はなかつたのだ。しかしそんなことはどうでも構はない。小路が四方八方から臭ひはじめる。私にそれが嗅ぎ分けられたところでは、それはヨオドフォルムの匂、揚林檎の油の匂、恐怖の匂だ。夏になると町中が匂ふ。それから私は一軒の異樣な、盲目のやうな家を見た。それは地圖には出てゐなかつた。しかし扉の上にまだ充分に讀めるやうにAsile de nuitと記されてあつた。玄關の脇に、宿泊料が書き出されてあつた。それは高價ではなかつた。
 そしてそれから? 停つてゐる乳母車の中に一人の子供を私は見た。子供は肥つてゐて、蒼白く、額に目に見えるくらゐの吹出物ができてゐた。それは明らかに全治してゐて、もう痛まないらしかつた。子供は眠つてゐた。口を開けて。そしてヨオドフォルムや、揚林檎の油や、恐怖の匂を吸ひ込んでゐた。まあかういつたところなのだつた。肝腎なことは、人々が其處で暮らしてゐるといふことだ。それは一番肝腎なことだ。

 私が窓を開けて眠ることをどうしても止められないわけを話さう。電車は私の部屋をよぎりながら轟々と走り去る。自動車は私の上を疾走する。戸が鳴る。何處かで窓硝子が軋みながら落ちる。私はその大きな破片がどつと笑ひ、小さな破片がくすくす笑ふのを聞く。それから突然、家のなかの他の側から、鈍い、抑へつけられたやうな物音が聞えてくる。誰かが階段を登つてくるのだ。上つて來たぞ、ひといきに上つて來たぞ。ほら、そこに居る。まだ居る。とうとう通り過ぎてしまふ。それから再び、街。一人の娘が叫んでゐる。「お默りつてば! もうそんなこと聞きたかあないんだよ……」電車が全速力で走つてくる。その叫び聲のうへを、あらゆるもののうへを、超えてゆく。誰かが叫んでゐる。人々が走つてゆく。追ひこしあふ。犬が吠える。犬が……それは何んといふ慰めだらう。また明け方には、鷄が啼く。それを聞いてゐると、たまらなくぞくぞくしてくる。そ…

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