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水郷異聞
すいごういぶん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」 学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-09-16 / 2014-09-21
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 山根省三は洋服を宿の浴衣に着替へて投げ出すやうに疲れた体を横に寝かし、片手で肱枕をしながら煙草を飲みだした。その朝東京の自宅を出てから十二時過ぎに到着してみると、講演の主催者や土地の有志が停車場に待つてゐてこの旅館に案内するので、ひと休みした上で、二時から開催した公会堂の半数以上は若い男女からなつた聴講者に向つて、三時間近く、近代思想に関する講演をやつた若い思想家は、その夜の八時頃にも十一時頃にも東京行きの汽車があつたが、一泊して雑誌へ書くことになつてゐる思想を纒めようと思つて、せめて旅館までゞも送らうと云ふ主催者を無理から謝絶り、町の中を流れた泥溝の蘆の青葉に夕陽の顫へてゐるのを見ながら帰つて来たところであつた。
 それは静かな夕暮であつた。ゆつくりゆつくりと吹かす煙草の煙が白い円い輪をこしらへて、それが窓の障子の方へ上斜に繋がつて浮いて行つた。その障子には黄色な陽光がからまつて生物のやうにちら/\と動いてゐた。省三はその日公会堂で話した恋愛に関する議論を思ひ浮べてそれを吟味してゐた。彼が雑誌へ書かうとするのは某博士の書いた『恋愛過重の弊』と云ふ論文に対する反駁であつた。
「御飯を持つてまいりました、」
 女中の声がするので省三は眼をやつた。二十歳ぐらいの受け持ちの女中が膳を持つて来てゐた。
「飯か、たべよう、」
 省三は眼の前にある煙草盆へ煙草の吸い殻を差してから起きあがつたが、脇の下に敷いてゐた蒲団に気が付いてそれを持つて膳の前へ行つた。
「御酒は如何でございます、」
 女中は廊下まで持つて来てあつた黒い飯鉢と鉄瓶を取つて来たところであつた。
「私は酒を飲まない方でね、」
 省三はかう云ふてから白い赤味を帯びた顔で笑つてみせた。
「それでは、すぐ、」
 女中は飯をついで出した。省三はそれを受け取つて食ひながらこんな世間的なことはつまらんことだが、こんな場合に酒の一合でも飲めると脹みのある食事が出来るだらうと思ひ思ひ箸を動かした。
「今日は長いこと御演説をなされたさうで、お疲れでございませう、」
 その女中の声と違つた暗い親しみのある声が聞えた。省三は喫驚して箸を控へた。其所には女中の顔があるばかりで他に何人もゐなかつた。
「今、何人かが何か云つたかね、」
 女中は不思議さうに省三の顔を見詰めた。
「何んとも、何人も云はないやうですが、」
「さうかね、空耳だつたらうか、」
 省三はまた箸を動かしだしたが彼はもう落ち着いたゆとりのある澄んだ心ではゐられなかつた。急に憂鬱になつた彼の眼の前には頭髪の毛の沢山ある頭を心持ち左へかしげる癖のある若い女の顔がちらとしたやうに思はれた。
「お代りをつけませうか、」
 省三は暗い顔をあげた。女中がお盆を眼の前に出してゐた。彼は茶碗を出さうとして気が付いた。
「何杯食つたかね、」
「今度つけたら三杯目でございます…

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