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明治時代の湯屋
めいじじだいのゆや
作品ID48020
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「文藝別冊[総特集]岡本綺堂」 河出書房新社
2004(平成16)年1月30日
初出「江戸と東京」1938(昭和13)年4月
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-05-28 / 2014-09-21
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 明治時代の湯屋について少しく調べたいことがあったので旧い雑記帳を引っくり返したり、旧い記憶を呼び起したりした。その時代の銭湯と今日のいわゆる浴場とは多少の相違があるので、何かの参考までにその一部をここに抄録することにした。勿論、一口に明治といっても、その年代によって又相当の変遷が見出されるのであるが、ここにいう「明治時代」は二十七八年頃から三十七八年、即ち日清戦争の頃から日露戦争の頃に至る十年間ぐらいを中心にして、その前後を語るものと思って貰いたい。

          *

 日清戦争の頃から湯屋を風呂屋という人がだんだんに殖えて来たのを見ても、東京の湯屋の変遷が窺い知られる。もちろん遠い昔には丹前風呂などの名があって、江戸でも風呂屋と呼んでいたらしいが、風呂屋の名はいつか廃れて、わずかに三馬の「浮世風呂」にその名残りを留めているに過ぎず、江戸の人は一般に湯屋とか銭湯と呼び慣わしていた。それが東京に伝わって、東京の人もやはり湯屋とか銭湯とか呼ぶを普通とし、たまに風呂屋などという人があれば、田舎者として笑われたのであるが、この頃は風呂屋という人がなかなか多くなった。やがては髪結床を床屋、湯屋を風呂屋と呼ぶのが普通になるであろうと云っていると、果してその通りになった。
 東京の湯屋は白湯を主としていたのであるが、明治二十年頃から温泉、鉱泉、薬湯、蒸風呂などの種類が殖えた。そのほかに江戸以来の干葉湯というのもあった。大体の構造は今も昔も変らないが、浴槽も流し場もすべて木造で、人造石やタイル張りのたぐいは殆ど見出されなかった。併し警視庁の命令によって、釜前は石造または煉瓦作りとなったので、出火の憂いは頗る減少した。江戸時代には湯屋から出火した例が甚だ多く、大風の日には臨時休業の札をかけたそうであるが幸いにそんな事はなくなった。

          *

 浴槽は高く作られて、踏み板を越えて這入るのが習で、その前には柘榴口というものが立っているから、浴客は柘榴口をくぐり、更に踏み板を越えて浴槽に入るのである。柘榴口には山水、花鳥、人物など、思い思いの彩色画が描いてあって、子供たちを喜ばせたものであるが、何分にもこの柘榴口が邪魔をするので、浴槽の内は昼でも薄暗く、殊に夜間などは燈光の不十分と湯気との為に、隣の人の顔さえもよくは見え分からず、うっかりと他人の蔭口などを利いていて、案外にもその噂の主がうしろに聴いていたと云うような滑稽を演ずることもあったが、明治二十一二年頃から今日のように浴槽を低く作ることが行われ、最初は温泉風呂などと呼んでいた。この流行は先ず下町から始まって山の手に及び、それに連れて無用の柘榴石[#「柘榴石」はママ]も自然に取払われた。
 湯銭は八厘から一銭、一銭五厘、二銭と、だんだんに騰貴して、日露戦争頃までは二銭五厘に踏み留まっていたが、場末…

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