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鼻に基く殺人
はなにもとづくさつじん
作品ID48061
著者小酒井 不木
文字遣い新字新仮名
底本 「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集」 ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日
初出「文学時代」1929(昭和4)年5月号
入力者川山隆
校正者宮城高志
公開 / 更新2010-05-11 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「もうじき、弘ちゃんが帰ってくるから、そうしたら、病院へつれて行って貰いなさい」
 由紀子は庭のベンチに腰かけて、愛犬ビリーの眼や鼻をガーゼで拭ってやりながら、人の子に物言うように話すのであった。
「ほんとうに早くなおってよかったわねえ、お昼には何を御馳走してあげましょうか」
 ビリーはまだ、何となく物うげであった。彼は坐ったまま尾をかすかに振るだけであった。呼吸器を侵されて、一時は駄目かと思われるほどの重病から、漸く恢復したこととて、美しかった黒い毛並も色を失って、紅梅を洩れる春の陽に当った由紀子の白いきめを見た拍子に、一層やつれて見えるのであった。
「これでいい。どれ、見せて頂戴、まあ、綺麗になったこと」
 拭き終った由紀子は、こう言いながらガーゼを捨てて、エプロンのポケットから、ビスケットを取り出してビリーに与えた。ビリーは、あまえるようにして、由紀子の股に、咽喉のあたりをぴったりつけて食べるのであった。
 由紀子は暫くの間、自分もビスケットを食べながら、一度は傷いたことのある肺臓へ、今はふっくりとした胸壁を上下させながら、春の空気を思う存分呼吸した。弟の弘と二人暮しの閑寂な生活で、ビリーは自分の愛児のようになつかしかった。
「弘ちゃんは遅いのねえ、きっとまたどこかへ寄り道をしてくるのよ。悪い人ねえ」
 突然、ラウドスピーカーが昼間演芸の放送をはじめた。零時十分なのだ。
「そうそう、お薬をのまなけりゃ、ちょっと待っていらっしゃいよ」
 彼女が膝の塵をはたきながら立ち上ると、ビリーは、どたりと腹を地に据えて、前脚をつき出した。
 前の放送の終った頃にのませるべき筈だったのを、うっかりして居た責任感から、由紀子はあわてて椽側にかけ上った。そうして、ラジオセットの前に来ると、ビリーの薬袋はどこへ行ったか見当らなかった。
「放送が始まったら、ビリーに薬をやることにしましょう。そうすりゃ、いくら忘れっぽい姉さんでも大丈夫だろうから」
 ビリーが病気にかかった時、弘はこう発議して、いつも、薬袋を其処へ置くことになって居た。その薬袋がないのである。由紀子は暫く考えて居たが、
「そうそう、今朝弘ちゃんが、楊枝をつかいながら嚥ませて居たから、……そうかも知れない」
 独り呟き、独りうなずいて、彼女は階段を上りかけたが、突然中途で、釘づけにされたように立ちどまった。二階へあがって弘の部屋へはいっても、部屋へはいったということが知れてはならなかったからである。弘には妙な癖があって、彼女がたまたま留守中に部屋へはいると、あとで弘は、襖の閾に線を引いて置いたが、それがちがった位置になって居るとか、硯箱について居た指紋が僕のとちがうとか、蜘蛛の巣が破れて居るとか、書物の置き方が乱れて居るとかいっては、由紀子をなじるのであった。
「あなたのお部屋にはどんな秘密があるの」
 ある時由…

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