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猫と村正
ねことむらまさ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集」 ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日
初出「週刊朝日特別号」1926(大正15)年7月号
入力者川山隆
校正者宮城高志
公開 / 更新2010-05-23 / 2014-09-21
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「母危篤すぐ帰れ」という電報を受取った私は、身仕度もそこそこに、郷里名古屋に帰るべく、東京駅にかけつけて、午後八時四十分発姫路行第二十九号列車に乗りこんだ。この列車は昨今「魔の列車」と呼ばれて盗難その他の犯罪に関する事件が頻々として起り、人々の恐怖の焦点となって居て、私も頗る気味が悪かったけれど、母の突然の病気が何であるのかわからず、或は母が既に死んだのではなかろうかとも思って気が気でなく、この列車が私の利用し得る最初のものだったので、とりあえず、その三等席に陣取った訳である。
「魔の列車」とはいえ乗客はすでに東京駅で一ぱいにつまった。私の席のすぐ前の腰掛は、黒い色眼鏡をかけ、麦稈帽をかぶって、洋服に夏マントを着た四十格好の人によって占領されたが、その顔が非常に蒼ざめていて、いわば人相がよくなかったので、私は時節柄一寸、気味の悪い思いをした。然し、靴をぬいで腰掛の上に坐り、車窓にもたれて眼をとじると、いつの間にか、人相の悪い人のことなど忘れてしまって、頭は母のことで一ぱいになった。
 いつもならば、私は列車の響に眠気を催すのであるが、今夜はなかなか眠られそうになかった。後には、牛込の寓居に残して来た妻子のことや、半分なげやりにして来た会社の仕事のことなどが思い出されて、とりとめのない考えにふけっていたのである。
 梅雨どきのこととて、国府津を過ぎる頃は、雨がしきりに降り出して、しとしとと窓を打ち、その音が、私の遣瀬ない思いを一層強めるのであった。列車内は煙草の煙が一ぱいで、旅客の中には眠っているものもあれば、まだ盛にはしゃいでいるものもあったが、薄暗い電灯の光に照された陰影の多い人々の顔には、何となく旅の悲愁といったようなものが漂っていた。そうして私の気のせいか、人々の顔には「魔の列車」であることを意識して警戒するような表情が読まれた。ふと、私の前の、人相の悪い人に眼をやると、その人は軽い鼾をかいて眠っていた。
 でも、そのうちに考え疲れたためか、私はいつの間にかうとうととしていた。列車が浜松を過ぎたころであったと思う。車内がにわかに騒々しくなったのに眼をさまして、何事か起きたのかと注意すると、車掌やその他の鉄道従業員があわただしく往来していた。私は妙な予感に襲われて、私の前の座席を見ると色眼鏡をかけた人相の悪い人はどこかへ行ったと見えてその場にいなかった。で、私の背後にいた人に何事が起きたのかときくと、今二等車で、乗客が大金を盗まれたため大騒動をしているのだということであった。私は「魔の列車」がその名にそむかなかったことを知って全身がぞっとするように思った。
 それから私は手洗に行こうと思い、何気なく立ち上って、靴をはこうとすると、私の右の靴が紛失していることに気附いた。私ははっとした。腰掛の下を探しても見えないので、宵の口から想像力の旺盛になっていた私に…

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