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二人の盲人
ふたりのもうじん
作品ID48103
著者平林 初之輔
文字遣い新字新仮名
底本 「平林初之輔探偵小説選Ⅱ〔論創ミステリ叢書2〕」 論創社
2003(平成15)年11月10日
初出「祖国 第三巻第一二号」1930(昭和5)年12月号
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-12-17 / 2014-09-21
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 復興局の一技師の手が、大東京市の地図の上に、縦横に朱線をひいていく。個人の既得権も利害関係も、センチメンタルな詠嘆も、すべてを無視して、彼のペンは気まぐれに地図の上を、走っていく。
 ○○山の切り通しの上の、四十坪ばかりの土地を、天にも地にも、たった一つの財産として父祖幾代の昔から受けついできた、玄療院の屋敷も、無慈悲な都市計画の犠牲となって、市の中央へ通ずる放射線の道路新設のために、半ば以上切り取られることになった。
 この都市計画案が発表されてから、玄石は急に憂鬱になった。子供の時に、盲目になった彼は、このささやかな父祖伝来の財産を、少年時代の思い出で、十重二十重に包んでいた。彼にとっては、それが全世界だった。狭い家の中の様子はもとより、庭内の一木一草に至るまで彼の死んだ網膜の底に、二十年前のままの新鮮さをもって、焼きつけられていたのだ。
 彼の視覚に残っている記憶は、ただこの四十坪の世界だけだった。それは無限に複雑な色彩をもって、二十年一日のように彼の眼底に保存されていたが、その他の世界は、彼にとっては一様に灰色だった。
 若干の賠償金を、手に握らされて、その代わりに彼は、いま全世界を失おうとしているのだ。放射線道路の縁端は玄療院の玄関から、茶の間を横ぎって斜めに南の方へ突きぬけることになっていた。
 既にこの頃では、人夫の声や、鶴嘴の音や、トロッコの響きなどが崖の下で聞こえる。土の崩壊する音を聞くたんびに、彼は彼の世界が、いや彼の生命そのものが崩壊していくように感じた。彼は、稼業の針按療治にも手がつかないで、榊の生垣のそばにつっ立って、世界の崩壊する音を聞きながら、吐息をついていることが、毎日のようだった。



 玄石には、美しい妻があった。
 だが、美しいというのは、世間の人の評判だけで、子供の時分に視覚を失った彼には、女の美醜についての観念は全くなかった。美しいというのは、どういうのだろう? 彼は、鋭敏な指先で、彼女の頭を、眼を、鼻を、口を、頤を、肩を、乳房を、全裸体を撫でまわしてみて、彼女の美を意識しようとつとめたことが、幾度あったか知れぬ。だが、どんなに鋭敏な触覚でも、視覚の代わりをすることはできなかった。彼にとっては、彼女の美は、不可知の属性にすぎなかった。それは彼に何の悦楽も与えないで、ただ、永久に満たされないもどかしさを与えるだけだった。美を所有しながら、美を認識することができないということは、もともとよりもなお悪かった。
 そればかりではない。始めのうちは、彼も自分では、わからなくても、世間の人に美しいと言われることに、一種の嬉しさ、肩身の広さを感じていた。だが、それは束の間だった。この嬉しさ、この肩身の広さは、やがて何とも言いようのない拷問に変わっていった。
 崖の下で、同じ職業をしている、盲唖学校の同窓の藤木という男が…

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