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新しい歌の味ひ
あたらしいうたのあじわい
作品ID48134
著者石川 啄木
文字遣い旧字旧仮名
底本 「啄木全集 第十卷」 岩波書店
1961(昭和36)年8月10日
入力者蒋龍
校正者阿部哲也
公開 / 更新2012-04-22 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


人聲の耳にし入らば、このゆふべ、
涙あふれむ、――
 もの言ふなかれ。(哀果)

「妻よ、子よ、また我が老いたる母よ、どうか物を言はないで呉れ、成るべく俺の方を見ないやうにして呉れ、俺はお前達に對して怒つてるのぢやない、いや、誰に對しても怒つてなぞゐない。だが今は、何とか言葉でもかけられると、直ぐもうそれを切掛けに泣き出しさうな氣持なのだ。さうでなければ、また何日かのやうに、何の事もないのに酷く邪慳な事を爲出して、お前達を泣かせなくてはならんやうになりさうなのだ。どうか默つて俺には構はずにゐて呉れ、一寸の間――この食事を濟まして俺が書齋に逃げ込んでしまふまでの間で可いから。」
 かう言つたやうな心を抱きながら、無言で夕の食事をしたゝめてゐる男がある。年は二十七八であらう。濃い眉を集め、さらでだに血色のよくない顏を痛々しい許り暗くして、人の顏を見る事を何よりも恐れてゐるやうな容子を見ると、神經が研ぎすました西洋剃刀の刄のやうに鋭くなつてゐて、皿と皿のカチリと觸れる音でさへ、電光のやうに全身に響くらしい。

書を閉ぢて
秋の風を聽く、
 カアテンの埃汚れのひどくなれるかな。

 書といふのは、あの不思議な形をした金色の文字が濃青の裝布の背に落着いた光を放つてゐる。北歐羅巴の大國の新しい物語の本でがなあらう。日暮時から讀み出したのだが、幽かにインキの匂ひの殘つてゐる手觸りの粗い紙の間に、使い馴れた象牙の紙切を入れる毎に面白みが増して、すぐに返事を出さねばならぬ手紙の來てゐた事も忘れ、先程女中の代へて行つた珈琲のすつかり冷え切つたにも心付かずに、つい一息に終末まで讀んでしまつた。靜かに閉ぢた表紙の上にその儘手を載せて、ぢつと深い考へに落ちようとすると、今迄は知らずにゐたが更紗の卓子掛でも揉むやうなザワ/\といふ物音がする。「風が出たのか知ら。」かう思ひながら、カアテンの隙から窓を透して見ると、外は眞暗で何も見えないが、庭の一本の古榎木の秋風に顫へてゐる樣は手にとるやうに分る。もう大分夜も更けたと見えて、そのザワ/\といふ淋しい音の外には、カミン爐の上の置時計の時を刻むチクタクが聞える許り、先刻まで聞えてゐたやうだつたミシン機の音さへ止んでゐるのは、目を覺ました子に添乳して妻のそれなり眠入つたのでもあらう。耳をすましてゐると、風の音はだん/\烈しくなつてゆくやうに思はれる。今讀んだ物語の中のアトラクチイヴな光景が心に浮んで來る。不圖、明るい瓦斯の光に照らされたカアテンの汚れが彼の目に付いた。「隨分ひどくなつたなあ……これを取代へたのは去年の春だつたか知ら? いや、一昨年だつたらうか?」かう思ひながら、目はその儘、手だけを靜かに飮料の茶碗の方へ差延べる。(明治四十五年一月稿)



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