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真珠夫人
しんじゅふじん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「真珠夫人(下)」 新潮文庫、新潮社
2002(平成14)年8月1日
「真珠夫人(上)」 新潮文庫、新潮社
2002(平成14)年8月1日
初出「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」1920(大正9年)6月9日~12月22日
入力者kompass
校正者Juki、門田裕志、トレンドイースト
公開 / 更新2014-06-23 / 2016-09-07
長さの目安約 588 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

奇禍





 汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなって行く焦燥しさで、満たされていた。国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせているのであった。
 彼は、一刻も早く静子に、会いたかった。そして彼の愛撫に、渇えている彼女を、思うさま、いたわってやりたかった。
 時は六月の初であった。汽車の線路に添うて、潮のように起伏している山や森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするようなあくどさで車窓に迫って来ていた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂わせているのであった。
 常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になっている筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さえ見えなかった。たゞ仏蘭西人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めているのが、信一郎の注意を、最初から惹いているだけである。彼は、若い男鹿の四肢のように、スラリと娜な少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに迭みに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしていた。此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合わしているだけである。
 が、あの湯治階級と云ったような、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や白金や宝石の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしているような人達が、乗り合わしていないことは信一郎にとって結局気楽だった。彼等は、屹度声高に、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞ったりすることに依って、現在以上に信一郎の心持をいら/\させたに違いなかったから。
 日は、深く翳っていた。汽車の進むに従って、隠見する相模灘はすゝけた銀の如く、底光を帯たまゝ澱んでいた。先刻まで、見えていた天城山も、何時の間にか、灰色に塗り隠されて了っていた。相模灘を圧している水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでいそうな、暗鬱な雲が低迷していた。もう、午後四時を廻っていた。
『静子が待ちあぐんでいるに違いない。』と思う毎に、汽車の廻転が殊更遅くなるように思われた。信一郎は、いらいらしくなって来る心を、じっと抑え付けて、湯河原の湯宿に、自分を待っている若き愛妻の面影を、空に描いて見た。何よりも先ず、その石竹色に湿んでいる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨が現われた。それに続いて、慎ましい脣、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現われている処女らしい含羞性、それを思い出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処には居合わさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでいた。彼は…

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