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さいきんのかんそう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「山頭火随筆集」 講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年7月10日
初出「樹 大正五年十一月号」1916(大正5)年11月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2008-07-10 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 現時の俳壇に対して望ましい事は多々あるが、最も望ましい事の一つは理解ある俳論の出現である。かつて島村抱月氏は情理をつくした批評ということを説かれた。それとおなじ意味に於て、私は『情理をつくした俳論』を要望する。
 合しても離れても、また讃するにしても貶するにしても、すべてが理解の上に立っていなければならない。個々の心は或は傾向を異にし道程を異にするであろう。しかしながら、それらはすべて真実から出発していなければならない。
 評者の心は作者の心にまで分け入らなければならない。広い正しい心は毒舌や先入見や一時の感情を超絶する。つつましやかにしてしかも力強く、あたたかにしてしかも権威ある批判は、魂と魂、真実と真実とが接触するところから生まれる。私は人間本来の声――その声に根ざした俳論を熱求して居る。

 季題論が繰り返される毎に、私は一味の寂しさを感じないでは居られない。ただ季題という概念肯定のために――むしろ季題という言葉の存在のために、多くの論議が浪費されつつあるではないか。もしも季題というものが俳句の根本要素であるならば、季題研究は全然因襲的雰囲気から脱離して、更に更に根本的に取扱われなければならない。
 私は季題論を読むとき、季題という言葉よりも自然という言葉を使用する方がより多く妥当であり適切であると思う。

 俳句を止めるとか止めないとかいう人が時々ある。何という薄っぺらな心境であろう。止めようと思って止められるような俳句であるならば、止めまいと思うても止んでしまうような俳句であるならば、それはまことの詩ではない。止めるとか止めないとか、好きとか嫌いとかいうようなことを超越したところに、まことの詩としての俳句存在の理由がある。自我発現乃至価値創造の要求を離れて句作の意義はない。

 直接的表現を云々する態度は間接的態度である。現実味と真実味とを区分したり、人生味と自然味と優劣を争うたりする境地を脱していない。考うべき問題はもっと奥にある。
 第一義の問題をそのままにして置いて第二義第三義の問題に没頭するとき、俳壇は堕落するばかりである。

 一切の事象は内部化されなければならない。内部化されて初めて価値を持つ。
 生命ある作品とは必然性を有する作品である。必然性は人間性のどん底にある。
 詩人は自発的でなければならない。価値の創造者でなければならない。
 新らしい俳人はまず人間として苦しまなければならない。苦しみ、苦しみ、苦しみぬいた人間のみが詩人である。――(九、二六、夜)――
(「樹」大正五年十一月号)



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