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水〔扉の言葉〕
みず〔とびらのことば〕
作品ID48261
著者種田 山頭火
文字遣い新字新仮名
底本 「山頭火随筆集」 講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年7月10日
初出「「三八九」第三集」1931(昭和6)年3月30日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2008-07-25 / 2014-09-21
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 禅門――洞家には『永平半杓の水』という遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかえして、水の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを戒められたのである。そういう話は現代にもある、建長寺の龍淵和尚(?)は、手水をそのまま捨ててこまった侍者を叱りつけられたということである。使った水を捨てるにしても、それをなおざりに捨てないで、そこらあたりの草木にかけてやる、――水を使えるだけ使う、いいかえれば、水を活かせるだけ活かすというのが禅門の心づかいである。
 物に不自由してから初めてその物の尊さを知る、ということは情ないけれど、凡夫としては詮方もない事実である。海上生活をしたことのある人は水を粗末にしないようになる。水のうまさ、ありがたさはなかなか解り難いものである。
へうへうとして水を味ふ
 こんな時代は身心共に過ぎてしまった。その時代にはまだ水を観念的に取扱うていたから、そして水を味うよりも自分に溺れていたから。
腹いつぱい水を飲んで来てから寝る
 放浪のさびしいあきらめである。それは水のような流転であった。
岩かげまさしく水が湧いてゐる
 そこにはまさしく水が湧いいた、その水のうまさありがたさは何物にも代えがたいものであった。私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く詠いたい。
(「三八九」第三集 昭和六年三月三十日発行)



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