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ゲエテの「冬のハルツに旅す」
ゲエテの「ふゆのハルツにたびす」
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日
初出「一橋新聞 第三百号」1940(昭和15)年1月1日
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2013-06-09 / 2016-01-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ゲエテの「冬のハルツに旅す」の斷章にブラアムスが附曲したアルト・ラプソディを、一週間ばかり前からレコオドでをりをり聽いてゐるが、どうもそれを唱つたオネエギンといふ女のひとの、すこし北歐訛りのある陰影に富んだ、底光りのする歌ごゑがすつかり耳についてしまつてゐる。夜など、ふと目をさますと、その歌が耳の底から蘇つてくるやうである。……しかし、ずつと病牀にゐる私は、ついおつくふにしてそのドイツ語の歌詞を分からないままにしておいたが、けさ漸く小康を得たやうなので、ゲエテの詩集をもつて來させて、それを讀んでみた。かなり難解な詩であつて、二度三度と讀みかへして、漸くその詩の意味が分かるやうになつた。手もとにある鴎外の「ギヨオテ傳」をみると、一七七七年十一月未、カルル・アウグスト公が昵近の士を連れて獵に出たとき、ゲエテは獨りハルツに旅した、そのときの詩のやうである。病牀にあつて、私はかういふ旅するゲエテの姿を描き出してゐた……

重くろしき雲の上に
輕ろやかに翼をさめて
獲物ねらふ禿鷹のごと
わが歌を翔りやらん

 旅人はさう氣負ひながら、冬の朝まだき、獵に出る友人らと袂を別つて、獨り、北に向いてハルツを目ざしてゆく。雪をはらんだ雲は、さういふ彼に抗ふやうに、低くおもく、垂れこめてゐるのである……
 旅人はをりをり二三日前に會つた一人の青年の不幸な姿をおもひうかべる。その厭世的になつてゐる青年がそれまで何度も手紙を寄こして彼に救ひを求めてゐたので、彼はこの度の放行の途中、わざわざその青年に會つていろいろ意見をしてやつたが、その甲斐もなかつたのである……
 旅人の胸は、人皆にはそれぞれの道が神によつて豫示せられてゐて、或者は幸福への道に、また或者は苦艱への道に向はざるを得ないといふ事で、いふべからざる苦惱をおぼえる。さういふ人生のすがたが、いま彼の直面してゐる自然の中にもさながら見える。この山中の荒涼とした樣子はどうだらう。何物も目には入らず、只をりをり餓ゑ切つたやうな小動物だけがそのみじめな姿をさらすばかりである。――いま、旅人の目には、はるか彼方、氷つた湖の向うに、一つの町が見え出してゐる。ああ、おそらく彼處には幸福なる人々が、蘆の間にかくれてゐる雀たちと共に、憩うてゐることだらう。「己もきのふまでは彼處で彼等と共に無事な日を過ごしてゐたのだ……」
 それと同時に、彼には再び、あのかはいさうな、無益に人生に抗してゐるやうな青年のすがたが、こんな心象でまざまざと泛んでくる。

されどかしこに孤り立てるは誰ぞ。
彼れが掻き分けゆくは藪ならずや。
その過ぎし跡に灌木はふたたび枝さしかはし、
踏まれし草も身を起こせり。
何たる荒蕪の彼れを呑まんとする!

 ブラアムスのアルト・ラプソディのはじまるのは此處だ。詩の氣分の高まりと共に、オネエギンの力強い獨唱は、かくして道にはぐれて…

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