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春の郊外
はるのこうがい
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桂月全集 第二卷 紀行一」 興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日
入力者H.YAM
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2008-09-26 / 2014-09-21
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

桃花の散らぬ程にと、越ヶ谷さして、兩國橋より、東武線の鐵道に乘る。この線は、本所を過ぎ、龜戸より左折して、鐘ヶ淵、北千住、草加、越ヶ谷、粕壁、久喜、鷲の宮、羽生を經て、利根川に接する川俣にとゞまる。やがて川をわたり、館林を經て、足利に達する筈也。向島の櫻雲を、ちらと汽車の窓より、緑樹のひま/\に眺め、北千住を過ぎては、東北郊に特有なる菜の花を眺む。とぼし油の需要減ぜると共に、菜花の美觀も減じゆくは、惜むべし。『有明けのとぼす油は菜種ゆゑ蝶がこがれて逢ひに來る』、『むかし思へば深い中、死ぬる覺悟で來たわいな』など云へる、可憐なる有明節も、今は東京にすたるやう也。越ヶ谷にて下る。
 越ヶ谷の桃とて、人の見にゆくは、越ヶ谷在の大林の桃林也。その手前の大房にも、桃林あり、古梅園とて梅園もあり。越ヶ谷の本宿の東方にも、元荒川の左岸に桃林あり。こなたに麥畑あり。川を中にして、緑紅相映ず。
 停車場を出でて、十數町、奧州街道を北行し、一寸、左折すれば、大林の桃林に出でたり。小高き處に、小祠あり、數株の松あり、茶店あり。桃林は、之をかこみて、二三町四方にひろがる。人よりも低き木にして、案外に大なる花を帶ぶ。見渡す限り紅天地と言ひたけれど、實は、それほどの事は無し。小桃林の長くつゞくことは、中山、市川にゆづり、見渡しの晴れやかなるは、こゝが勝る。元荒川は近けれども、桃林それまでは及ばず。遊客は、ほんのぽつ/\あるのみ也。花下に席をしきて、團欒して酒飮むは、近邊の農夫にや。濁聲あげてうたひはやす。中に、一人起ちて跳れば、手や、袖や、桃の枝にふれて、紅雪はら/\と散る。
 露臺に腰かけて、休息す。平生ならば、一杯といふ處なれど、鮨を食ひ、茶をのみてすます。樂みまた其間に在り。十數年來の胃病、この春に至りて、殊に甚し。酒を一寸口にすれば、嘔吐を催して苦しく、煙草を口にするも、亦嘔吐を催す。たゞ、歩きて體をうごかせば、體も精神も、少しは苦痛を免るゝ心地す。『たゞ見れば何の苦もなき水鳥の足にひまなき我が思ひ哉』と咏じけむ、余の遊行するは、病人の病院に入る也。もとより酒の味は、口に解せず、たゞ、からだのみ解する身也。されど毎日晩酌をかゝざるに慣れて、一二合ぐつと飮み干して、體に微醉を求むるとは、われながら、未練なる男哉。酒に憂へを忘るゝは、小さき料簡也。一切酒を口にせずとは、これも小さき料簡也。飮みて酒の趣を得てもよけれど、進みては、飮まずして酒の趣を得るに至るべし。斗酒も辭せざるは男子の意氣地なるが、飮まざれば酒の趣を得ずとは、まだ悟れぬ人の事なりと、自から悟つたつもりなるも、酒に嘔吐を催すやうになりたるおかげと、思ひ切つては廣言も出來ず。茶店の棚にならべる正宗の瓶をながめて、腹の蟲がまだ納まり兼ぬるやう也。
 歩をかへし、李花の間を過ぎ、菜畑を過ぎ、麥畑を過ぎて、元荒川と街道とを隔つ…

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