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中村地平著「長耳国漂流記」
なかむらちへいちょ「ながみみこくひょうりゅうき」
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 03」 筑摩書房
1999(平成11)年3月20日
初出「現代文学 第四巻第七号」大観堂、1941(昭和16)年8月28日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-10-21 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 こゝに、歴史的事実といふものがあつて、作家が、製作欲をそゝられる場合、然しながら、如何に書くべきか、といふことは、かやうな意欲と同時に忽ち構想されるほど容易なものでは決してない。
 歴史小説といへば、歴史よりも小説であるのが当然で、読者は必ずしも資料に忠実であることを要求しないのが普通であり、物語の内容も亦、事実よりも、創作的自由、或ひは思想によつて、変通自在であることが、決して不合理ではなかつた。一昔前までは、それが当然であつたのである。
 ところが、文学に、自意識といふものが加はつてこのかた、小説に「事実らしさ」といふものが甚しく要求されるやうになり、しかも、この要求は、読者よりも、作家自身の作家活動の内部に於て、むしろ、劇しいものがあつた。作家は、小説が事実らしさから踏みださぬために、一字一行に心を配り、結局、一行毎に事実らしさはあるけれども、全体として、人性の極めて小さな一部分を描く以上に飛躍することができない。豊富な浪曼精神といふものはありながら、又、卑小な題材にうんざりしながら、一行の真実に忠実であるがために、作家的欲望の多くのものを不当に殺さなければならなかつた。近代文学の負ふた十字架の如きものであつた。
 歴史小説に於ても、亦、この十字架をまぬかれることができなかつた。
 屡々、現代の浪曼作家たちは、現代小説といふものが事実らしさに制約されて飛躍した人性を描きにくいために、歴史小説に走る。然しながら、そこでも、やつぱり、事実らしさの制約を受けて、自由の空想を走らす余地がない。資料と作家的空想との板ばさみといふ具合で、なにか、シミッタレた感じのする不自由な構想からぬけだすことができない。さういふやうな様子があつた。
 歴史小説のこの不自由さに対して、多分、どの歴史小説作者も、活路を見出すために、新らたな方法を欲し、或ひは、探してゐたらうと思はれる。
 私は、これに対して、二つの答案がありうると思ふ。一つは、全然、作者の空想を殺した場合。一つは、全然、資料を無視した場合。
 私は、中村君の「長耳国漂流記」に、前者の完璧な答案を見たのである。すくなくとも、前者の答案を志す場合には、これ以上に完成された手法の妙を示すことは難しい。読者の如何やうに意地の悪い近代的感覚によつても、この作品に不安定とか、不合理とか、不燃焼といふものを見出すことは不可能であらう。この手法、この形式は、中村君の創作したもので、その功績はたゝへらるべきものでなければならぬ。
 特に、私は、中村君がこの材料に製作欲をうごかされた抑々の始めから知つてをり、資料の蒐集に、実地調査に、材料の整理に並々ならぬ苦心と年月を費したことを熟知するので、今、この独特の形式の創案によつて、却々、小説とは為しにくい資料を充分以上に活かし得た成果に対して、深甚の敬意を払ひたい。あらゆる歴史文学がこの…

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