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幼い頃の記憶
おさないころのきおく
作品ID48388
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」 ちくま文庫、筑摩書房
2006(平成18)年10月10日
初出「新文壇 第7巻第2号」1912(明治45)年4月
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-09-07 / 2015-05-25
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 人から受けた印象と云うことに就いて先ず思い出すのは、幼い時分の軟らかな目に刻み付けられた様々な人々である。
 年を取ってからはそれが少い。あってもそれは少年時代の憧れ易い目に、些っと見た何の関係もない姿が永久その記憶から離れないと云うような、単純なものではなく、忘れ得ない人々となるまでに、いろいろ複雑した動機なり、原因なりがある。
 この点から見ると、私は少年時代の目を、純一無雑な、極く軟らかなものであると思う。どんな些っとした物を見ても、その印象が長く記憶に止まっている。大人となった人の目は、もう乾からびて、殻が出来ている。余程強い刺撃を持ったものでないと、記憶に止まらない。
 私は、その幼い時分から、今でも忘れることの出来ない一人の女のことを話して見よう。
 何処へ行く時であったか、それは知らない。私は、母に連れられて船に乗っていたことを覚えている。その時は何と云うものか知らなかった。今考えて見ると船だ。汽車ではない、確かに船であった。
 それは、私の五つぐらいの時と思う。未だ母の柔らかな乳房を指で摘み摘みしていたように覚えている。幼い時の記憶だから、その外のことはハッキリしないけれども、何でも、秋の薄日の光りが、白く水の上にチラチラ動いていたように思う。
 その水が、川であったか、海であったか、また、湖であったか、私は、今それをここでハッキリ云うことが出来ない。兎に角、水の上であった。
 私の傍には沢山の人々が居た。その人々を相手に、母はさまざまのことを喋っていた。私は、母の膝に抱かれていたが、母の唇が動くのを、物珍らしそうに凝っと見ていた。その時、私は、母の乳房を右の指にて摘んで、ちょうど、子供が耳に珍らしい何事かを聞いた時、目に珍らしい何事かを見た時、今迄貪っていた母の乳房を離して、その澄んだ瞳を上げて、それが何物であるかを究めようとする時のような様子をしていたように思う。
 その人々の中に、一人の年の若い美しい女の居たことを、私はその時偶と見出した。そして、珍らしいものを求める私の心は、その、自分の目に見慣れない女の姿を、照れたり、含恥んだりする心がなく、正直に見詰めた。
 女は、その時は分らなかったけれども、今思ってみると、十七ぐらいであったと思う。如何にも色の白かったこと、眉が三日月形に細く整って、二重瞼の目が如何にも涼しい、面長な、鼻の高い、瓜実顔であったことを覚えている。
 今、思い出して見ても、確かに美人であったと信ずる。
 着物は派手な友禅縮緬を着ていた。その時の記憶では、十七ぐらいと覚えているが、十七にもなって、そんな着物を着もすまいから、或は十二三、せいぜい四五であったかも知れぬ。
 兎に角、その縮緬の派手な友禅が、その時の私の目に何とも言えぬ美しい印象を与えた。秋の日の弱い光りが、その模様の上を陽炎のようにゆらゆら動いていたと…

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