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菊あわせ
きくあわせ
作品ID48396
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」 ちくま文庫、筑摩書房
2006(平成18)年10月10日
初出「文藝春秋」1932(昭和7)年1月号
入力者門田裕志
校正者坂本真一
公開 / 更新2015-11-10 / 2015-10-17
長さの目安約 37 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「蟹です、あのすくすくと刺のある。……あれは、東京では、まだ珍らしいのですが、魚市をあるいていて、鮒、鰡など、潟魚をぴちゃぴちゃ刎ねさせながら売っているのと、おし合って……その茨蟹が薄暮方の焚火のように目についたものですから、つれの婦ども、家内と、もう一人、親類の娘をつれております。――ご挨拶をさせますのですが。」
 画工、穂坂一車氏は、軽く膝の上に手をおいた。巻莨を火鉢にさして、
「帰りがけの些細な土産ものやなにか、一寸用達しに出掛けておりますので、失礼を。その娘の如きは、景色より、見物より、蟹を啖わんがために、遠路くッついて参りましたようなもので。」
「仕合せな蟹でありますな。」
 五十六七にもなろう、人品のいい、もの柔かな、出家容の一客が、火鉢に手を重ねながら、髯のない口許に、ニコリとした。
「食われて蟹が嬉しがりそうな別嬪ではありませんが、何しろ、毎日のように、昼ばたごから――この旅宿の料理番に直接談判で蟹を食ります。いつも脚のすっとした、ご存じの楚蟹の方ですから、何でも茨を買って帰って――時々話して聞かせます――一寸幅の、ブツ切で、雪間の紅梅という身どころを噛ろうと、家内と徒党をして買ったのですが、年長者に対する礼だか、離すまいという喰心坊だか、分りません。自分で、赤鬼の面という……甲羅を引からげたのを、コオトですか、羽織ですか、とに角紫色の袖にぶら下げた形は――三日月、いや、あれは寒い時雨の降ったり留んだりの日暮方だから、蛇の目とか、宵闇の……とか、渾名のつきそうな容子で。しかし、もみじや、山茶花の枝を故と持って、悪く気取って歩行くよりはましだ、と私が思うより、売ってくれた阿媽の……栄螺を拳で割りそうなのが見兼ねましてね、(笊一枚散財さっせい、二銭か、三銭だ、目の粗いのでよかんべい。)……いきなり、人混みと、ぬかるみを、こね分けて、草鞋で飛出して、(さあさあ山媽々が抱いて来てやったぞ)と、其処らの荒物屋からでしょう、目笊を一つ。おどけて頭へも被らず、汚れた襟のはだかった、胸へ、両手で抱いて来ましたのは、形はどうでも、女ごころは優しいものだと思った事です。」
 客僧は、言うも、聞くも、奇特と思ったように頷いた。
「値をききました始めから、山媽々が、品は受合うぞの、山媽々が、今朝しらしらあけに、背戸の大釜でうで上げたの、山媽々が、たった今、お前さんたちのような、東京ものだろう、旅の男に、土産にするで三疋売ったなどと、猛烈に饒舌るのです。――背戸で、蟹をうでるなら、浜の媽々でありそうな処を、おかしい、と婦どもも話したのですが。――山だの――浜だの、あれは市の場所割の称えだそうで、従って、浜の娘が松茸、占地茸を売る事になりますのですね。」
「さようで。」
 と云って、客僧は、丁寧にまたうなずいた。
「すぐ電車で帰りましょうと、大通……辻へ出ますと、電車は…

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